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<インタビュー>核工学者が書き直した李舜臣将軍の「乱中日記」(2)

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2016.09.09 15:29
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--どのように作業したのか。

「まず最初に乱中日記草を文字の位置まで考慮し、原文とできる限り近い状態でコンピューターに入力した。その後、牙山(アサン)の顕忠祠(ヒョンチュンサ)に保管されていた親筆原本の影印本と対照した。専門家でもなく、この仕事だけをするわけでもないので、4、5年かかった。解読がうまくできない文字は辞典も調べながら苦労して解読した。明白な字も間違っている場合が少なくなかった。結局、比較的正確だと知られている乱中日記草で約140カ所の誤りを見つけた」

 
--草書の資料を見るには高度な漢文知識が必要なのでは。

「体系的に勉強したわけでもない。何度も眺めていると自ずと分かるようになった。もちろん難しい漢字は周囲に尋ねた」 

李舜臣将軍が書いた日記の原本、すなわち親筆本は国宝第76号として忠清南道牙山顕忠祠に所蔵されている。これを200年後の正祖の時代に活字化した後、別の李舜臣関連文書とともに整理したのが『李忠武公全書』だ。乱中日記という名称もこの時に付けられた。他の重要な資料としては植民地時代の1935年、朝鮮総督府で8年間の作業の末に刊行した『乱中日記草』がある。長い作業を経て作成された資料であるため、誤りが比較的少ないと評価されてきた。この資料から約140カ所の誤りを崔教授チームが見つけたのだ。

--その間発刊された乱中日記の翻訳本や李舜臣の小説および映画などには誤りが多いのか。

「小説の中には根拠がない内容が非常に多い。小説家は想像力を発揮して虚構的な内容を書くこともある。歴史的事実をあまりにもねじってしまえば問題ではないだろうか。乱中日記を正確に見ていない小説家も少なくないようだ」

--例えば。

「いくつかの小説では『女真』という女性が登場し、李舜臣と同衾するところが描写されている。しかし丙申年9月12、14日の日記に登場する女真という言葉が女性の名前かどうかは依然として確実でない。乱中日記の原本を見ると、12日付には『武将が到着して寝た』という文章が終わった後、多くの余白を置いて女真という言葉が書かれている。また、ここでは『寝る』という意味である『宿』の字が出てくるが、これは自分が寝たという意味の自動詞だ。『女真と同衾した』となるには、その前に『一緒にする』ことを意味する『与』の字のようなものがなければいけない。誤って解釈したと見る理由だ。不幸にもこうした誤りは一度出てしまえば終わりだ」

--ほかにも明白な誤りはあるのか。

「乱中日記と朝廷に送る報告書を見ると『撞破』という言葉が何度か出てくる。つき破るという意味で、今までは船どうしがぶつかることを撞破と見なした。映画でも朝鮮の船と日本の船が互いにぶつかる場面が出てくるが、日本の船ばかり撃破される。今までは日本の船は弱く我々の船は丈夫だからこういう結果が出たということになっている。しかし果たしてそうだろうか。科学者の立場で見ると、同じ木船どうしが衝突してこのようなことになるのか疑わしい。また朝鮮の船がいくら強くても、衝突で破損すれば補修しなければいけない。映画もそうであり、最近のテレビドラマでも戦闘が始まるやいやな船どうしがぶつかった。見るにはよいが、こういうものだとは信じがたい。原文を見ると、長距離砲で撞破したという話が出る。こうした事実などから見て、当時の海戦はまず砲撃戦をし、後に船どうしがぶつかる戦闘をしたと見なければいけない」

--そのような誤りは明らかにするべきでは。

「誤った内容を指摘する論文もかなり書いた。しかし論文はあまり読まれない。なぜ読みもしない論文を何度も書けというのか分からない」

--正租の時に刊行された李忠武公全書の中の乱中日記にも誤りが多いというが、なぜか。

「当時、奎章閣所属の学者2人が3年間にすべての編纂作業を終えたからだ。植民地時代には8年もかかっている」


<インタビュー>核工学者が書き直した李舜臣将軍の「乱中日記」(3)

<インタビュー>核工学者が書き直した李舜臣将軍の「乱中日記」(1)

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