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【コラム】日露戦争110年=韓国

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2015.09.09 16:13
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1905年5月27日未明。慶尚南道(キョンサンナムド)の鎮海(チンヘ)湾にとどまっていた東郷平八郎提督の日本連合艦隊に電文が伝えられた。長い間待っていたロシアの最強バルチック艦隊が東海(トンヘ、日本海)に現れたというものだった。対馬海戦でバルチック艦隊はわずか24時間のうちに壊滅した。司令官さえも捕虜となり、38隻のうち半分が沈められた。結局ロシアは9月5日にポーツマス講和条約を結び、朝鮮と満州から手を引かなければならなかった。

日本の勝利は予想外だった。当時のロシア戦力は覇権国である英国さえも恐れるほどだった。1904年2月に日露日戦争が勃発後、日本は旅順戦闘・奉天(現在の瀋陽)海戦をものにして勝機を捉えた。その過程で死亡者だけでも8万人に達した。戦争が長期化すれば日本も持ちこたえるのが難しかった。ロシアはロシアで1905年初めの「血の日曜日」「ポチョムキン虐殺」など反乱と革命に巻き込まれて戦力を集中させにくい状況だった。

 
ロシアはバルチック艦隊に最後の期待をかけていた。だが艦隊は喜望峰を経て8カ月間、地球の半周(2万8000キロ)を回らなければならなかった。英国がスエズ運河を封鎖していたからだった。マラソンのフルコースを走った疲れた選手とホームリングの元気な選手が行った格闘技だったから、勝負はすでに出たようなものだった。

李舜臣(イ・スンシン)将軍を慕って研究した東郷提督は、対馬海戦で「丁」の字形の布陣を展開した。鶴翼の陣を模倣したのだ。後になって東郷はネルソンに次ぐ軍神だとあがめられると「海軍史上、軍神はただ李舜臣将軍だけだ。私を李舜臣と比較するのは彼への冒とくだ」と謙虚に言った。

日露戦争は不凍港を探して南下したロシアと、北進した日本の必然的な衝突だった。東洋の新興日本が北極グマのロシアに勝って世界を驚かせた。日本では、黄色人種が白色人種に勝利した戦争であることを浮き彫りにした。安倍首相が戦後70周年の談話で「(日本の日露戦争勝利は)植民地支配下にあった多くのアジア、アフリカの人々に勇気を与えた」と述べたほど日本にとっては誇らしい歴史である一方、韓国にとっては恥辱の始まりだった。

先週末(5日)は日露戦争終戦110周年になる日だった。東洋の盟主となった日本は第1次大戦、日中戦争、太平洋戦争で暴走機関車のように突進していった。司馬遼太郎は「日本が正常な国家だったのは日露戦争までだった。その後は酒に酔って馬に乗って走るキツネのように悪賢い国になり、敗戦によってキツネの幻想は崩れた」と言った。日露戦争の勝利による慢心が1945年の崩壊を呼んだという話だ。1世紀前の歴史が今も北東アジアを抑えつけている。

オ・ヒョンギュ論説委員

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