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【噴水台】後難となった日本戦犯の遺骨

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2015.08.17 11:53
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2013年10月、イタリアの小都市アルバノの聖堂前。黒い霊柩車が現れると駆け付けたデモ隊から怒号が飛んだ。「遺体をごみ捨て場に送れ」。第2次世界大戦時、ローマ近郊で335人を虐殺したナチ親衛隊出身のエーリヒ・プリーブケの葬儀に怒った市民たちだった。

彼はアルゼンチンにうまく逃れてホテルの支配人として生きた。だが1995年に正体がばれてイタリアから追放され、終身刑を宣告されて100歳で亡くなる。

 
問題はその後に起きた。彼を埋めようとしていた子孫たちは墓の場所を見つけることができなかった。イタリアはもちろんドイツ・アルゼンチンがいずれも遺体を受けつけなかった。彼の墓が極右派の聖地になることを憂慮したのだ。結局、彼はやっとイタリア刑務所内の見捨てられた墓地に埋められる。

ナチス戦犯は、死んでも埋めてもらえる土地一切れさえ得られない。1948年にニュルンベルク裁判で死刑宣告を受けたヘルマン・ゲーリングら11人の遺体は火葬され川に捨てられた。ユダヤ人虐殺責任者アドルフ・アイヒマンは、隠れ過ごしたアルゼンチンで60年に拉致されイスラエルに連行されていく。そこで処刑されたアイヒマンもやはりひとつかみの灰に変わって海にまかれた。完全な墓が撤去されたりもした。監獄で亡くなったナチスの副総統ルドルフ・ヘスはドイツのブンジーデル墓地に埋められる。だがネオナチ主義者が集まると当局と遺族は遺体を火葬して湖にまいた。

日本の戦犯も本来は同じ運命だった。A級戦犯28人を審判した東京裁判の時、マッカーサー司令官は東條英機元首相ら処刑された7人の遺骨を遺族に渡そうとした。するとソ連のクズマ・デレビヤンコ中将が「遺骨を保管すれば軍国主義が復活する」と反対して結局、火葬して灰を東京湾にまいた。

ここで終わっていたら靖国議論もなかったかもしれない。ところが日本の憲兵(または火葬場の作業員)が遺骨をひとつかみずつ取り出したことが禍根となった。保管されていた遺骨は60年、愛知県三ケ根山に移されて日本の右翼の聖地「殉国七士廟」が誕生する。

右傾化の風が激しくなる78年には、彼らと終身刑を受けた7人までのA級戦犯14人が靖国神社に合祀される。遺骨が後難になるという予言が正しかったことになる。

15日、日本の現職閣僚と議員が靖国を参拝した。安倍晋三首相は玉串料をおさめた。このままでは靖国議論が無限に繰り返されることは明らかだ。靖国の代わりに別の追悼施設を作ろうという声が日本でも出てくる。韓国政府も反対だけをするのではなく、具体的な代案で圧迫するに値することではないだろうか。

ナム・ジョンホ論説委員

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