주요 기사 바로가기

<慰安婦生存者13人証言>「看護師させると言われ稼ごうと行ったが…」(2)

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2015.09.09 11:53
0
慰安所の運営者は、連れられてきた者たちに何も説明しなかった。ただ一日40~50人の軍人を受け入れさせた。逃げたかったが、怖かった。「嫌だといえば殴られ、逃げれば殺されたりしたので、辛くてもこらえなくちゃいけなかった。恨んで泣いて死にそうだという思いもあったが、今となってはどうしようもない」。おばあさんは「話せば、胸の内だけが騒がしくなる」とした。

慰安所にいながら一度だけ希望を持ったことはある。軍の部隊がシンガポールから撤収して台湾に移動するという時だ。「軍人についてシンガポールから台湾に行った時は、ここから抜け出せるのではないかという考えがよぎったが…違っていた」。状況はさらに悪くなった。戦争が長引きながら軍人たちは前より乱暴になった。おばあさんは「私はその時死ぬべきだったのに、そうすることができなかった」と話した。

 
5年間の苦難の末に解放されたが、おばあさんは家族に会いに行くことができなかった。慰安婦として連れて行かれたという事実が恥ずかしいからだ。「それを父に話せないから…そんなことをどうして言えるものか。私は罪人だから」。代わりに自分よりも20歳年上の男性に会って一緒に住み始めた。心が温かい人だった。おばあさんが子供を産めないと、夫婦は養子を息子にして大事に育てた。今は夫も亡くなり、息子夫婦もいない。孫娘がおばあさんの唯一の家族だ。

おばあさんは、人にだまされて、とてもひどい目にあったが、再び人に会って感謝しているといった。「なぜ私は慰安婦として引きずられて行ってこんなに苦労して生きているのかと思いながらも、政府が助けてくれると思えば感謝して、1人でいて孤独で退屈だけれども、またこうやって訪ねてくる人たちがいて感謝して。おじいさんはいなくなっても、年寄りを訪ねて爪を切ってくれる孫娘がいて感謝して」。おばあさんは目がしらを赤くして、記者たちの手をぎゅっと握った。「暑いのに遠くまで訪ねてきてくれてありがとう。私がまだしっかりしているから、もっと生きてみるから。必ずまた来てくださいね」。


<慰安婦生存者13人証言>「看護師させると言われ稼ごうと行ったが…」(1)

関連記事

最新記事

    もっと見る 0 / 0
    TOP