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【専門家寄稿】明仁天皇の発言、度過ぎる拡大解釈への警戒を

2001.12.26 21:49
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今回、明仁天皇の血縁関係をめぐる発言に対し、日本国民が驚いたという事実は、非常に驚くべきことだ。日本の天皇家全部が、百済(ぺクジェ)系統だということでもなく、単におよそ1200年前のある天皇の生母が、百済王の子孫だということは、そんなに騒ぐことでもないだろう。しかも、それは日本の史書に出ている厳然たる事実だ。それに比べて、今回明仁天皇がそうした発言をしたことに、どのような政治的目的があるものかは知らないが、自身の常識的な考え方を率直に打ち明けたものと受け止めたい。ここで、問題になった当時の状況を注意深く見てみよう。

8世紀後半に在位した桓武天皇の母親は光仁天皇の夫人で、名前は高野新笠だ。『続日本記』を見てみると、789年12月に桓武天皇が在位していた間、その母親の皇太后が亡くなるとその翌年の790年1月に葬儀を行ったが、その葬儀の部分の最後に、皇太后は百済・武寧王(ム二ョンワン)の息子である純抒太子(スンタテジャ)の子孫だと、出ている。その先祖の朱蒙(チュモン、都慕王)は河伯の女が日の光に感応して生まれており、皇太后はその子孫であるゆえに、「高い天にいる太陽の息子のお嬢さん(天高知日之子姫尊)」という意味の諡号(しごう)を与えたとなっている。

 
ところが、その純抒太子は505年斯我君(シアグン)という名前で倭国に派遣され、長く滞在したが、513年亡くなった。その間息子を1人産んだが、彼が和(倭)君の先祖となった。その和氏が770年代に高野氏と姓を変えており、桓武天皇の生母である高野新笠はその一族だった。それらは約270年にわたり、日本の貴族社会に百済の武寧王の子孫だという名分で高い地位を維持しならが生きてきたのだ。これがどうして可能だったのだろうか。

韓半島と日本は、古代時代には比較的文化の交流が活発だった。正常な交流もあったが、総じて韓半島で大きな戦乱がある度、大規模な移住民が日本列島に移して行った。そうしたケースのなかで主要なものが、5世紀初め、前期の伽耶(カヤ)連盟が解体されたとき、5世紀後半に百済の首都・慰礼城(ウィリェソン)が陥落したとき、6世紀中ごろ百済が滅亡したときなどだ。日本の古代文化の発展はそれら、すなわち渡来人の移住を機に高揚された。そのため日本では、伝統的に新羅(シルラ)よりは韓半島で早くに姿を消した国家、伽耶と百済に親しみを示しているのだ。

今回の明仁天皇の発言は、日本の歴史認識がさらに一歩進んだことを示唆するものではあるが、下手すると「日鮮同祖論」に発展しかねない。日鮮同祖論は、韓国と日本の過去の先祖が同じだという学説で、日本帝国主義による植民支配時代に日本の学者らが韓国人らを懐柔するために出した学説だが、その研究水準は深くない。なお、依然として日本の天皇家の起源について具体的に解明されたものがない。よって、天皇の一言に鼓舞され、些細な諸証拠でもって騒ぎすぎるのは自制すべきだろう。韓国と日本の血統関係については、今後、真実を糾明するという真の目的を持ったうえで、客観的な研究が進められなければならない。 

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