주요 기사 바로가기

【コラム】アジア競技大会の時代精神

ⓒ韓国経済新聞/中央日報日本語版2014.09.23 18:01
0
第17回仁川アジア競技大会が19日に開幕した。来月4日まで16日間続く。開会式ではドラマ『チャングム』で有名な韓流スターのイ・ヨンエがスポーツ少年少女と一緒に聖火台に点火した。この聖火はニューデリーで採火され、参加国と韓国全域を回って仁川に到着した。1951年にインド・ニューデリーで開かれた第1回大会を記念するため、初めてそこで採火した。歴史性を強調したイベントだ。

アジア競技大会が胎動したのは英ロンドンだ。48年7-8月の第14回ロンドン夏季オリンピック(五輪)で、インドの提唱で大韓民国・中華民国(現在の台湾)・フィリピン・ビルマ(ミャンマー)・セイロン連盟(スリランカ)が参加したアジア6カ国会議で創設に合意した。4年ごとに開催される五輪の中間年度に大会を開催することにした。中国は建国(49年)前だった。日本は第2次世界大戦後初めて開催されたロンドン五輪への参加を戦争責任のため拒否され、6カ国会議に参加できなかった。

 
6カ国会議は当時、インド国際オリンピック委員会(IOC)委員だったドゥト・ソンディ(1890-1966)が提案し、主導した。ソンディはインド初代首相のジャワハルラール・ネルー (1889-1964)のアジア団結精神を実践に移した。ネルーは47年8月15日のインド独立の日に首都ニューデリーにアジア独立活動家を集め、アジア関係会議を開いた。

各国が独立すればアジア団結のためにさまざまな行事を開催することにしたが、そこにスポーツ大会が含まれた。西欧の列強は戦争をして人類の悲劇を招いたが、アジア新生独立国は平和・共存・相互理解を追求しながら、スポーツを通じて善意の競争をしようという意味だった。アジア各国は49年、ニューデリーでアジア競技大会連盟を創設し、50年にニューデリーで最初の大会を開くことにした。しかし準備の関係上、大会は51年に開かれた。韓国は韓国戦争(朝鮮戦争)中で参加できず、第2回マニラ大会から参加した。

実際、第2次世界大戦前にも似た大会があった。1913年に米国の植民地だったフィリピンのウィリアム・キャメロン・フォーブス総督(1870-1959)がマニラで第1回大会を開催した極東オリンピック競技大会というものがある。フィリピンスポーツ選手協会長だったバスケット選手出身のエルド・ブラウン(1883-1924)が提案した。フィリピンとともに独立国の中華民国・日本・タイ、英国植民地だった英国領東アジア(現在のマレーシア)、香港が参加した。第2回大会は2年後、中国・上海で極東選手権大会(Far Eastern Championship Games)に名称を変更して開かれた。その後、フィリピン-中国-日本と続き、34年の第10回マニラ大会まで順調に開かれた。

しかし34年に日本が傀儡国の満州国を参加させると固執しながら中華民国が脱退し、大会の進行に支障が生じた。38年に予定されていた第11回大阪大会は日本が日中戦争を起こして実現せず、大会は永遠に消えた。侵略戦争がスポーツ大会を滅ぼした悲劇の歴史だ。このため48年のアジア競技大会発起国は、植民地と侵略国が多かった極東選手権大会の伝統を受け継ぐことはできないという点を明確にした。アジア競技大会の時代精神だ。

仁川大会には2兆5000億ウォン(約2500億円)が投入された。次の大会を招致したベトナム・ハノイが財政難を理由に4月に開催権を辞退し、インドネシア・ジャカルタで開催されることになった。韓国も70年大会を招致したが、安保状況を理由に辞退している。当時の朴正熙(パク・ジョンヒ)大統領が経済開発の財源を確保するため国家財政を惜しもうと大会を辞退したという分析が説得力を持つ。66年の直前大会が開催されたバンコクでまた開かれた。韓国と中東産油国がバンコクに財政支援をした。この大会で韓国は総合2位となった。(中央SUNDAY第393号)

関連記事

最新記事

    もっと見る 0 / 0
    TOP