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【噴水台】京橋荘

2009.04.22 13:49
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チャーリー・チャップリンの映画のタイトルのような「黄金狂時代」が実際に韓半島にもあった。朝鮮八道に暴かれた金鉱が5000カ所を超えたという1930年代の話だ。1939年の生産量は31トン、今の貨幤価値で計算して10兆ウォンにあたる豊かな鉱脈が韓半島の土中から掘り出された。植民地朝鮮の治者として君臨し、お金になることなら目を吊り上げた朝鮮総督府の金採掘奨励政策と、当時の金の価値暴騰がきっかりあった結果だ。そのおかげで韓半島を支配した日本は世界6位の金生産国となった。(全峯寛『黄金狂時代』)

 
当時朝鮮3代富豪の一人に数えられた崔昌学(チェ・チャンハク、1890~1959)は、ゴールドラッシュが作り出した新興富豪だった。20代序盤の年齢で故郷の平北亀城(ピョンブク・クソン)で金鉱を見つけて以来、数十の金鉱を所有し「黄金鬼」と呼ばれるほどの金脈を掘り出した。当時の多くの財産家たちがそうだったように崔昌学も日帝に飛行機8機を献納した親日の隊列にも立った。

ソウル中区平洞(チュング・ピョンドン)所在の京橋荘は本来、崔昌学が1938年に自分が住むつもりで建てた洋館だった。1584坪の2階建てにビリヤード台と理髪室、温水暖房施設まで取りつけ、当時としては豪邸だった。崔昌学はこの家を45年、臨時政府の要人たちと一緒に帰国した白凡金九(ペクポム、キム・グ)に無償で渡した。親日派の前歴を拭おうとする素早い変身だった。

長年の亡命生活で国内に行き場のなかった白凡は、この家を執務室兼リビングとして使った。ここで臨時政府の国務会議を開いて信託統治反対布告令を発表し、自伝的日記である『白凡日誌』を書いた。白凡は1回だけ京橋荘の正門を出ることができず、後の垣根を越えたことがある。48年4月19日「38線を切って倒れようとも、一身の乏しい安逸のために単独政府を立てることには協力しない」と金日成(キム・イルソン)との交渉のために平壌訪問を決心したが、これを阻止しようとするデモ群衆が京橋荘を包囲したからだ。それから1年あまり後、白凡は陸軍少尉安斗煕(アン・ドゥヒ)の銃弾に幽明境を異にしてしまった。今も京橋荘2階へ行くと安斗煕が撃った銃弾を目で確認することができる。

その後、大使館の建物として使われた京橋荘は1967年、高麗(コリョ)病院(現江北三星病院)に所有権が渡り、病院の一部として使われている。一時、撤去されそうになった危機があったがなんとか免れた。最近、ソウル市と三星病院側が合意して京橋荘全体を修復することにしたという。白凡が逝き、60年が経って初めて本来の姿を求めて子孫たちの学習場として使われることになったのだ。風霜にさらされた京橋荘の運命をさかのぼると、屈曲した韓国現代史の縮小版を見るようで、まったく労しい。

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