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日帝に5ドルで奪われた大韓帝国公使館、113年ぶり太極旗

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2018.05.16 09:44
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6年間の復元工事を終えた米ワシントンの在米大韓帝国公使館。
米ワシントンのホワイトハウスから北東に約1.4キロ、ロータリー「ローガンサークル」の上側の出口にビクトリア様式の地下1階、地上3階の赤いレンガの建物が見える。13番街1500番地。旧韓末の1889年、外交官が初めて入居した130年前の姿をそのまま復元した在米大韓帝国公使館だ。1910年に日本にわずか5ドルで奪われた建物を2012年に350万ドルで取り戻し、6年かけて徹底的な考証と復元工事を終えた。近代の対米外交を象徴する歴史遺跡記念館として22日に正式に開館する。

14日(現地時間)に訪れた公使館は、建物の前の交通信号や表示板を除けば昔の写真とほとんど違わなかった。太極模様が入った紺色の鉄製の玄関もそのまま再現された。建物の右側の駐車場跡には花柄が入った塀と不老門を設置し、平らな石を置いて小さな韓国式庭園を新しく作った。

 
公使館には無力な小国朝鮮の挫折と亡国の悔恨が染み込んでいる。1888年1月、初代公使の朴定陽(パク・チョンヤン)は赴任当時、「フィッシャーハウス」と呼ばれる近隣15番街の一般住宅に借りて暮らした。朴公使は朝鮮の自主外交を阻もうとしていた清の圧力にもかかわらず、クリーブランド大統領に単独で会って高宗(コジョン)の国書を伝えたことで、翌年、袁世凱に呼ばれた。その後、第2代の代理公使、李夏栄(イ・ハヨン)が現在の公使館に移った。高宗は朝鮮の自主性を見せようと1891年当時、皇室資金の内帑金の半分にあたる2万5000ドルを投入し、公使館の建物を取得した。海外公館のうち唯一の朝鮮政府所有の建物だった。

鉄製の屋根がある玄関を入って石段を上ると、右側の食堂の入口に大きな太極旗があり、左側には椅子とソファ、屏風、太極模様のクッションが飾られた接見室がある。そこのテーブルの上には第9代公使、李範晋(イ・ボムジン)夫妻と次男・李ウィ鍾(イ・ウィジョン)の幼い頃の姿の写真が置かれている。李ウィ鍾は1896年に赴任した父と共にワシントンに来て小学校に通い、父がホワイトハウス・国務省を行き来する時に通訳の役割もしたという。李ウィ鍾が11年後の1907年に李儁(イ・ジュン)烈士、李相ソル(イ・サンソル)烈士とともにハーグ特使として派遣されたのも流ちょうな外国語の実力のためだった。

李夏栄は高宗(コジョン)の御医であり初代・朴公使の米政府案内役をしていたハラス・アレンの通訳をしていた。初代の朴公使と公館職員が召還されると、一躍公使になった。李夏栄は朝鮮から清の勢力を追い出すために米国の派兵を実現させるよう高宗の密命を受けて動いた。米政界に派兵を呼びかけるために巨額の借款を得て公館で連日、盛大なパーティーを開いたりもした。クリーブランド大統領の夫人フランシスが初めて海外公館のパーティーに出席した姿は、当時のメディアに特筆大書された。しかし米国政府は孤立主義のモンロー主義路線により高宗の要請を断った。高宗の計画は実現しなかったが、李夏栄は米国社交界のスターに加わった最初の韓国人になった。第3代公使は李完用(イ・ワンヨン)だった。第4代公使であり後に長期にわたり漢城判尹を務めた李采淵(イ・チェヨン)は毎日見ていた公館前のローガンサークルをモデルに漢城府(市庁)前にロータリーを造成した。これがソウル広場の原形だ。

1905年の乙巳勒約で外交権を失い、公館は閉鎖された。1910年の庚戌国恥(韓国併合)の3日後、内田康哉駐米日本公使は形式的に5ドルでこの建物を取得した後、その場で1分後に米国人のホレイス・K・フルトンに10ドルで売った。その後、これを取り戻すまでに100年以上の歳月が必要だった。

国外所在文化財財団のオ・スドン米国事務所所長は「パク・ボギュン中央日報論説委員は2000年代初期から20回ほど現場を訪問し、記事、コラム、著書を通じて公使館の存在と独立外交の歴史的な意味を紹介し、この建物を取り戻すのに寄与した」と述べた。こうした功労でパク論説委員は2013年に政府から「国民勲章牡丹章」を受けた。

オ所長は「100年前の外交文書および写真、新聞マイクロフィルムなどを通じた徹底的な考証作業を通じて原形通りに復元した」とし「職員の宿舎だった3階は対米外交史と公使館の歴史、大韓帝国と公使館を取り戻す運動を見せる展示館にした」と説明した。22日から休館日の毎週月曜日を除いて毎日午前10時から午後5時まで一般の人々に無料で公開される。

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