<ゴルフ>引退する宮里藍、実力以上の特別なものを持つ

<ゴルフ>引退する宮里藍、実力以上の特別なものを持つ

2017年09月14日10時01分
[ⓒ 中央日報/中央日報日本語版]
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  2004年、日本プロゴルフツアーのダンロップフェニックストーナメントは大金を投じてタイガー・ウッズ(米国)を招待した。当時、日本の記者が最も関心を向けていたのはウッズではなかった。日本の記者は記者会見場でウッズに10代の女子ゴルファー宮里藍(32)について尋ねた。翌日、日本のスポーツ新聞には「ウッズも藍ちゃんを高く評価している」などと書かれた記事が掲載された。当時、日本ツアーで新人だった宮里は全盛期のタイガー・ウッズを脇役にするほど人気があった。

  ウッズと似ている点もあった。宮里のプロ転向発表を日本の放送局が生中継した。日本女子プロゴルフツアーは宮里のおかげで盛り上がった。新しい大会が生まれ、賞金も増えた。ウッズの赤いシャツのように宮里藍はひざ下までのソックスを流行させた。

  日本のゴルフ用品会社は「藍ちゃん」をめぐり激しく競争した。ブリヂストンは2人の兄(聖志、優作)とも契約する条件で宮里藍をつかんだという。

  2004年に日本女子プロゴルフツアーにデビューした宮里は同年5勝、翌年6勝した後、米国進出を宣言した。米女子プロゴルフ協会(LPGA)ツアーのクオリファイングスクールでは12打差で優勝した。

  しかし米国では振るわなかった。距離を増やして球質を変えようとしたところドライバーイップスになった。宮里は韓国の申智愛(シン・ジエ、29)からヒントを得てスランプから抜け出した。ショット距離が長くない申智愛が成功すると、自分もできると考えた。得意のショートゲームをまた磨きながら本来の姿を取り戻した。

  2010年に5勝して世界ランキング1位になったが、2013年からまたスランプに陥った。2010年の宮里はパット1位だったが、2014年には138位へと最下位レベルに落ちた。宮里のパターが崩れた理由は、神技のパットでLPGAツアーに旋風を起した朴仁妃(パク・インビ)の影響もあったはずだ。

  宮里藍が今週、エビアン選手権を最後に引退する。日本でスーパースターになったが、米国に進出してからは屈曲が多かった。しかし宮里は常に笑顔を見せ、周囲の人々を喜ばせた。

  英語を話せなかった2006年、同僚らから夕食に招待されると辞書を持参したというエピソードは有名だ。宮里はロレーナ・オチョア(メキシコ)とともにLPGAツアーの天使と呼ばれた。オチョアは引退競技に「最も良い友人」として宮里とともにプレーした。LPGAコミッショナーのマイク・ワン氏は「地球上で宮里藍のようないい人に会ったことはない」と語った。記者には、ラウンド後に成績が悪くても日本の記者らに各ホールの状況を親切に説明していた宮里の姿が記憶に残っている。

  宮里に続いて2位になったことがあるホ・ミジョン(28)は「宮里選手のことを悪く言う人は一人もいない。中学1年の時にジュニア韓日戦で会った時、私に日本語の数字を教えてくれた。最も立派な選手がツアーを去ってしまう」と惜しんだ。

  キャディーとの友情も目を引く。宮里はLPGAツアーの12年間、ミック・シーボーンというキャディと一緒にした。ドライバーイップス、パットイップスもともに経験した。2010年に宮里が5勝した時、賞金王は崔羅蓮(チェ・ナヨン)、最優秀選手賞(MVP)はヤニ・ツェンが獲得した。当時、宮里は「今年の最優秀キャディーはミック」と話し、キャディーは「私の心の中の最優秀選手は宮里」と返した。

  1985年生まれの宮里は韓国選手、特に強かった88年生まれの選手たちと活動時期が重なる。米国では朴仁妃、申智愛・崔羅蓮らと競争し、影響を及ぼし合った。イ・ボミ、キム・ハヌルなどは日本で成功したが、宮里によってツアーが成長した影響も大きかった。

  宮里は引退舞台のエビアンと縁が深い。宮里が初優勝したところ、また唯一2回優勝したところがアルプスのエビアンだ。宮里が優勝した大会はエビアンマスターズだ。2013年にメジャー大会に昇格し、エビアン選手権に名称が変わった。宮里はエビアン選手権ではチャンピオンになっていない。LPGAで9勝したが、メジャー優勝はない。引退競技で優勝できなければメジャー無冠の女王として残る。まだ機会はあるが、世界ランキング106位に落ちた宮里が優勝する可能性は高くない。それでも155センチの小さな体で、限りなく遅いテンポのスイングで世界最高と競い合った、誰より温かい心を持つ宮里の最後に拍手を送る。
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