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【コラム】1894(1)

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2015.09.08 10:59
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1894年中国戦勝節閲兵式は壮観だった。三軍儀仗隊が121歩を歩いて五星紅旗を掲揚した。一歩ごとに激動の歴史に染みついた血がほとばしった。それは「1894」から蓄積した中国の鬱血を今こそ解き放ったという大陸の宣言であった。1894は、患者になった東洋の巨人が新興帝国日本の一撃を迎えて人事不省に陥った年、人類文明の発祥地という自尊心を埋めて苦難の道程を始めなければならなかった年だった。20世紀の中国は、世界の国々が体験した惨状の博物館だった。帝国分割、侵攻、内戦、抗日闘争、大飢饉、文化革命、そして社会主義的市場経済に至るまで121歩は破滅から再起へと成功した新たな生命のドラマであった。

習近平主席が話した「偉大な復興」には、そうした悔恨が隠れている。彼が叫んだ。「鳳凰涅槃浴化重生」、鳳凰が自らを燃やしてさらに強くなって復活すると。中国時代の到来を知らせる荘厳な報告だったが、その矛先は日本を狙っていることを私たちは分かっている。1894は中国がアジアの禍根という黄禍論を西洋帝国に立証してみせた年だったからだ。日本はアジア盟主を自任して西洋的東洋を構築するには「野蛮の表象」である中国を馴致しなければならないといった。日清戦争に出た日本軍を、文明の十字軍として褒め称えた。福沢諭吉は「文野の戦争」とし、徳富蘇峰は「偉大な戦争」と称賛した。

 
牙山(アサン)湾に上陸した清軍は壊滅し、平壌(ピョンヤン)戦闘で清軍の遺体が積み重なった。1軍司令官の山縣有朋は黄海道(ファンヘド)を通り過ぎながら伊藤博文に電報を打った。「黄海道の土地は肥沃だから日本の食糧倉庫として使うべきだ」と。丁汝昌が導く北洋艦隊は、威海で水葬された。1895年、下関で李鴻章と伊藤博文が向かい合って座った。遼東半島・台湾・澎湖諸島などの割譲、賠償金2億テール、4つの省・市港を日本に開放する条項に印鑑を押した。下関条約の第1条には「清国は朝鮮国が完全無欠なる独立自主の国であることを確認する」とあった。15年後、朝鮮は植民地になった。朝鮮総督府の寺内正毅・初代総督が話した。「東洋禍乱の根っこを除去した」と。


【コラム】1894(2)

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