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【コラム】敵を「発明」する社会=韓国

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2019.01.22 14:00
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『薔薇の名前』の作家、ウンベルト・エーコがニューヨークに行った時のことだ。タクシーの運転手が彼にあなた国の「敵」は誰かと尋ねた。エーコが考えてみると、イタリアは歴史上「外部」の敵が特になかった。イタリアは絶えず内部の敵と「お互い」戦った。ピサとルッカ、、ゲルフとギベリン、北と南、ファシストと平和主義者、そしてマフィアと国が戦った。エーコの考えでは「敵」は人間社会で非常に意味深長な存在だ。人々は敵を通じて自分のアイデンティティーを確認し、それと競って自己体制の優越性を確認するからだ。いかなる敵も存在しない時、人々は敵を「発明」し、そして「創造」をした敵を「悪魔化」することで自分の存在論的優位を確認する。たとえば極右のスキンヘッドは自分たちの集団的アイデンティティーを確実視するために自己集団に属さない人たちを敵であり悪と見なす。ローマ皇帝のタキトゥスはユダヤ人を非難しながら「我々に神聖なすべてものが彼らには不敬であり、我々に不潔なすべてのものが彼らには律法だ」と述べた。エーコはこうした現象を「敵を発明する」という。

問題は実際の敵でなく「発明」された敵だ。発明された敵は我々の生存を「威嚇」する敵ではなく、単なる「差異」の存在にすぎない。差異が容認されない時、敵が創造される。他者を悪魔化することで自身を正当化する主体は、ほとんどの場合、貧弱なアイデンティティーの所有者である場合が多い。没落する理念の所有者であるほど新しい価値を敵対視するのもこうした脈絡からだ。

 
古い世界の最後の荷持ちは自分たちの存在が希薄化されると、過激な方式で敵を生産した。もっぱら敵の存在の中だけで自分たちの存在性が浮き彫りになるため、彼らはさらに鮮明な敵を作り出し、極端な対立点の中で自分たちの存在を浮上させる。そして彼らにとって「小さな」差はいつも「根本的な」問題と認識され、その小ささが明らかになると自分たちの存在性も小さくなるため、彼らは飢えた猛獣のように他の敵を見つけようとする。これが敵を発明する主体の生存方式だ。

こうした形の敵づくりは事実上、日常的なことだ。我々は日常生活で差異のある他者に耐えられず、敵を作り出して排除する。敵を発明するのが公共領域で発生する場合、問題はさらに大きくなる。公共行為は国家単位であるため、その規模と余波が大きい。自己集団の生存のために他の集団を敵にする場合、国家単位の莫大なエネルギーが消耗する。

特に政治が正当性論争でなく敵作りの戦いに流れる場合に生じるすべての問題は、そのまま国家構成員全体の負担となる。韓国社会を長く支配してきた敵性はイデオロギーを中心に形成されてきた。多くの政権が理念を前に出してアイデンティティーを確保し、他者を敵化してきたし、今でもこうした形の戦いはカラー論いう名で続いている。その間、世紀は変わり、理念を捨てた世界は全地球的な資本の支配の中に入った。差異が敵であり他者が幻滅の存在である社会に「出口」は見えない。政治がすべきことは差異を敵にするのではなく何が正しいかを明らかにすることだ。存在もしない敵の本質を他者に付与して敵を生産する時、世界は地獄になる。

エーコは「敵を発明する」という文章の最後をサルトルの一幕劇『出口なし』に言及して終える。この作品には窓も鏡もない密閉された部屋に閉じ込められた3人の死者が登場する。この部屋の中には拷問する人がいないにもかかわらず、みんな絶えず拷問を受けていると感じる。鏡の代わりに他者の顔を見てお互い憎悪する。ある登場人物は次のように話す。「私たちはみんな他の二人を拷問する者として行動する」。他者の「存在」自体が耐えがたい地獄だったのだ。

オ・ミンソク/文学評論家/檀国大英文学教授

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