<朝鮮通信使400年>行列の中の少年が踊った朝鮮踊り…今も公演中

<朝鮮通信使400年>行列の中の少年が踊った朝鮮踊り…今も公演中

2007年05月12日14時26分
[ⓒ 中央日報/中央日報日本語版]
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  毎年10月になれば日本の岡山県牛窓にある小さな村の神社の前庭では独特の公演が行われる。2人の少年が顔におしろいを塗って唇に紅、額に赤い十字を描き、7~8分間、踊る踊りだが、日本伝統芸術とは全く違う。朝鮮式帽子に似ているかぶりものと雲の柄が入った上着、足首の部分をくくったところなど格好はひと目で朝鮮の物だと分かる。

  唐子踊りと呼ばれるこの踊りは朝鮮通信使が日本に残した代表的な文化の痕跡の1つだ。12回にわたって派遣された朝鮮通信使は両国高位官吏、文人たちの間の外交・交流ばかり行ったのではない。異国から来た大規模使節団の姿は日本の普通の人々に深い印象と文化的衝撃を与えた。彼らはこのときの感興を踊りや祭りなどで表現して今日に伝えている。

  ◆通信使は文化伝令使=瀬戸内海の主要港だった牛窓は下蒲刈を去った通信使一行が常に休んだり、宿泊したりした所だ。1624年、通信使の副使だった姜弘重(カン・ホンジュン)は牛窓の風景をこう伝えた。「(宿所である)本蓮寺に到着した。船から降りた所から寺の前まで並んだ人家だけで数百軒。見物する男女が垣根のように道端をいっぱいに埋めて…」(東槎録)

  400~500人の通信使一行の中には正使、副使、従事官ら高位官吏もいたが、通訳など雑多な事務を行う人や侍従はもちろん、各種伎芸を持った人々もいた。総合文化使節団だったわけだ。身分の低い一行は民家を借りて泊まらなければならなかった。

  江戸時代の日本の百姓も所属藩から外に出られない存在なので、数十年に1度来る通信使の行列は一生に1度の大きな見ものだった。高橋重夫前瀬戸内市教育監は「江戸幕府は普通の人々が通信使一行と直接接触することを禁止したが、一生に二度と見られない見ものに出会った百姓たちの好奇心を阻むことはできなかった」と話した。

  通信使一行には使臣たちをお世話をしながら旅行での退屈さをしのぐために踊りと歌のできる子供(小童)が10余人ずついた。まさにこれらが牛窓へ唐子踊りを残したのだ。申維翰(シン・ユハン)の海遊録には「楽工が太鼓を打って笛を吹き、二人の童子が向かい合って踊りを踊ったら日本人たちが雲のように集まってきた」という部分がある。騒動になった舞踊を見た現地の人たちがこれをまねた踊りを作って伝えるようになったのだ。牛窓のほかにも三重県津市の分部神社と鈴鹿市の東玉垣町にも似ている踊りが伝わる。

  踊りではないが、岐阜県大垣市に残った朝鮮山車もおもしろい例だ。日本人が祭りするときは山車という御輿を背負っていくが、大垣市には山車を飾った朝鮮通信使の服飾と旗などが伝わってくる。

  ◆市民間交流、今も=牛窓を発った通信使一行の次の寄着地は室津だった。現在行政区域では兵庫県竜野市御津町に属する人口1000人余りの小さな村だが、江戸時代には交通の要旨として盛んだった所だ。

  室津郷土資料官である海駅館で働く栢山泰訓さんは「室津には当時、藩主である大名たちの専用宿所である本陣が6カ所もあり、一時、寺が12もあったほど村の規模に比べ賑やかな所だった」と話した。通信使一行も常にここに寄った。通信使のために、潟で船を降りてからすぐ入って行けるよう、迎賓館を建てた。今、この席は住民センターの建物が入っている。

  栢山さんは自分が事務局長を務める室津を活かす会など多くの市民団体の力を合わせて長期的に昔の迎賓館を修復する計画だ。政府の資金で急いで建物を作るのではなく、市民を説得して参加させ、きちんと進行するという計画だ。彼は通信使を媒介にした両国交流も両国市民団体が導かなければならないという考えだ。例えば通信使が行き交った「海の道」である瀬戸内海を文化交流の象徴として両国市民団体が力を合わせてユネスコ世界遺産に推進してはどうかというアイディアだ。

  「朝鮮踊り」唐子踊り…服装・音楽など日本伝統文化と大きな違い

  

牛窓で毎年秋に公演される唐子踊り。帽子と赤い色の飛雲紋の上着、裾を縛り付けたズボンに朝鮮時代の服飾文化が残っている。(瀬戸内市教育委提供)



  唐子踊りは毎年10月末、牛窓一帯で開かれる祭りのときだけ公演される。牛窓の紺浦という村にある疫神社がメイン舞台だ。主演を務める2人の子供は5~6歳で選ばれて11~12歳まで続ける。

  村の人々が2人の子供を肩車に乗せて神社の前庭に到着すると公演が始まる。疫神社で2度公演した後、村の3カ所で1回ずつさらに公演する。

  この踊りの形式と背景音楽、子供たちの服装などは日本の伝統文化と違いが大きい。服装だけでも足首を縛ったりする服装は日本にない。この踊りの伴奏に使われる笛も穴が6つで、日本の伝統芸能によく使われる穴7つのものと比較される。

  瀬戸内市教育委の若松挙史主任は「踊りの由来をめぐり、以前には中国から来たという説、日本固有のものという説などいろいろあったが、学問的研究と考証を通じて朝鮮通信使だということが明らかになった」と述べた。

  通信使の行程がこのごろのように1つ1つ知られる前の1970年代初めまでは、この踊りをめぐり、神功皇后と関連付ける場合もあった。神功皇后は任那日本府説など日本帝国主義の韓半島侵奪を正当化するのに決まって登場する人物。今は生存していたのかさえ疑われているが、当時、日本で韓半島関連の文物には必ず出ていた。その神功皇后が三韓を征伐した後、三韓の王子を人質に連れて来て、ここで休むときに踊りを躍らせたが、それが千数百年にわたって伝わったという荒唐な説だ。

  この踊りが神功皇后ではなく朝鮮通信使から始まったという事実が明らかにされるには、足で歩いて密着研究しながら史料を掘り出した在日の史学者たちと日本の郷土史学者たちの功績が大きかった。在日史学者イ・ジンヒ教授はこの踊りが1748年の通信使のときに伝来した可能性が高いとしている。

  

  

  ◆協力=ソン・スンチョル江原(カンウォン)大学史学科教授、仲尾宏京都造形大学客員教授

  
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