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<慰安婦生存者13人証言>12歳で経験した悪夢…その痛みを包んだ暖かいコート

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2015.09.08 10:16
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金福善(キム・ボクソン)さんは慰安婦被害を放送で証言すると、周囲の人々から「そんなところに連れられていくとは、どれほど貧しかったのだろうか」という話を聞いて傷を受けた。その後は顔を公開することも、悪夢のようだった当時の記憶を口にすることもなくなった。
先月12日、慶尚南道昌原(チャンウォン)の金福善(キム・ボクソン)さん(83)の家を訪問すると、金さんは壁に静かにもたれてテレビを見ていた。ニュースが放送されるテレビから安倍晋三首相の名前が聞こえた。金さんはすぐに背を向けた。「安倍の話が出てくればテレビを消してしまう。あまりにも憎くて。以前の首相はまだこれほどではなかったが、この人は違う。私たち慰安婦被害者の話を少し聞くべきなのに…」。

金さんは12歳の時に日本に連れて行かれた。当時は国民学校(小学校)4年だった。誰かが当時のことを尋ねると、金さんは「はっきりと思い出せない」と答える。あまりにも幼かったということもあるが、それよりは悪夢を口に出したくないからだ。しかし金さんは「言葉で表現できない、日本は…」としながら話を続けた。「私たちが貧しく、もやしを育ててご飯を食べさせたが、警察や日本の人が来て器を足で蹴飛ばした。よい印象がない、日本は。慰安婦の時もあちこちに連れて行かれ、どこかはっきりと分からなかったが、本当に苦しかった」。

金さんは広島の原爆の恐怖も振り返った。「広島県に爆弾が落ちた。その爆弾が落ちたところの近くに私たちがいた。それで布団などを持ってみんな出て行き、堀端に隠れていた。爆弾を受けないように。それははっきりと覚えている」。

 
解放後に韓国に戻った金さんは遅れて中学校に入った。当時は中学校まで行くケースが多くなかったため、金さんが自慢する記憶だ。その後は結婚して子どももできた。みんなが貧しかった時代、金さんも子どもの腹を満たすためにあらゆる苦労をした。最初に始めたのは木の器を売る商売だった。休む間もなく働いていると、いつのまにか子どもが成長してかわいい孫が生まれ、小さな家も持った。しかし金さんの傷は癒えなかった。

慰安婦被害者調査・登録が始まった1992年、政府は金さんが通った小学校の強制動員名簿を確認し、金さんを被害者として登録した。その後、一度だけ放送に出て被害事実を証言したが、当時に受けた傷のため二度と被害事実を述べたり写真を撮影したりはないという。

「当時、近所の女性たちが私について『ああ、あの人の家はどれほど貧しかったのか…。あんなところに連れて行かれて』と話していた。私の中学校の同窓生もまだ近所に暮らしていたが、親しい友人も同じだった。それでいかなる行事に行っても絶対に写真も撮らず話もしない。私は…」。

周囲の誰にも堂々と話すことができず、むしろ罪人のように暮らした。冷たい視線を向けられるのでは、子どもが被害を受けるのでは、と思うと怖かった。その金さんに小さな慰めになったのは別の被害女性だった。金さんは数年前から近い地域にいる被害女性と親しくなり、外出したりもする。小さな喜びも享受する時間は多くない。金さんはあきらめることなく日本政府から謝罪を受ける日を待っている。認知症にならないよう外出して人に会い、歌の教室にも通っている。金さんに最も重要なのは女性家族部から昨年贈られた冬用のコートだ。

「これは私がデパートに行って自分で選んだ。本当に気に入って冬によく着た。健康が悪化して認知症になってはいけないので、できるだけ外に出ようと思う」。

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