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“技術の日産”、倒産危機から再起した原動力(2)

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2012.06.26 17:55
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もう一つの名車は日本スポーツカーの伝説と呼ばれるGT-R。 草創期の独スポーツカーの代名詞ポルシェを超える日本車という賛辞もあった。 日本ツーリングカー選手権50勝を記録した。 1957年にスカイラインという名前で登場したこの車は、もともとプリンス自動車が生産していたが、66年に日産が同社を引き受けた後、日産の看板車種となった。 69年に登場した第2世代モデルの高性能バージョンのスカイラインGTは、日本で初めて直列6気筒DOHC24バルブ2Lエンジンを搭載した。 最高出力160馬力、最高時速200キロで、当時日本グランプリで表彰台を独占したポルシェ904と接戦を繰り広げた。

最近販売されている第6世代GT-Rは07年の東京モーターショーで登場した。 外観はゴジラを連想させる。 中村史郎デザイン総括は「ポルシェが流線型の美しさを誇るなら、GT-Rは強靭な怪獣を連想させる」と説明する。

 
日産は50年代に本社を東京・銀座に移し、日本を代表する企業であることを自負した。 地方でスタートしたトヨタ、ホンダとは違った。 洗練された雰囲気が漂い、名門大出身の役職員を選んだ。 90年代半ば、役員のうち東京大学出身者の比率は60%以上だった。これに対し トヨタは10-20%、ホンダは10%未満だった。 問題は東京大学役員の派閥争いだった。 研究開発・生産は東京大学工学部出身が握っていった。 財務・営業・マーケティングは東京大学法学部出身が担当した。 こうして両者の間に意思疎通の障壁が生じた。 90年代に日産が没落した理由にこの点を挙げる人が多い。 技術側の重役は「良い車を作ったが、販売・マーケティングに資金を使った」と非難した。 販売側は「トヨタより品質とインテリアが劣る」と研究所・生産部門を原因に挙げた。 しかも東京大学の先輩・後輩が多いため、問題に目をつぶることが増えた。 通常、社長に昇進しない副社長級は系列会社の社長になるのが慣例だった。 先輩が引き受けた系列会社に後輩の社長が手を入れることができなくなり、系列会社の問題が伏せられた。 系列会社が日産に頼る風土が生じたのだ。 98年の倒産危機当時、役員会議では「消費者が日産の新技術がどれほど優れているかよく知らないので、消費者を教育してこそ販売が増える」という奇想天外な結論が出たりもした。

結局、日産は99年6月、仏ルノーの傘下に入った。 そしてカルロス・ゴーン会長が就任し、今日にいたる。 ゴーン会長がまず着手したのは能力中心の人事だった。 また日産なしに存立できない系列会社を整理した。 外国人経営者の目に、東京大学の先輩・後輩配分人事はあり得ないことだった。 日産がわずか2年で黒字を出して復活した最も大きな秘訣は、意思疎通をふさいだ‘人脈硬化症’を治療したことだった。

日産は00年に6000億円(約9兆ウォン)の赤字を出したが、翌年には3720億円(約5兆ウォン)の黒字に転じた。 1兆4000億円にのぼる日産の悪性負債も解決した。 日産の復活でゴーン会長は一躍、世界的なスター経営者になった。 しかしこうした劇的な復活は「技術の日産」だったため可能だったという評価もある。 自動車の基本である技術と生産管理の面で、日産はトヨタに匹敵する実力を備えているということだ。 日産は昨年まで11年間、年平均6兆ウォンを超える利益を出し、現代・起亜(ヒョンデ・キア)車に次ぐ世界6位の自動車企業となっている。


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    2012.06.26 17:55
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    技術の日産のプライド、2013年型GT-R。3.8Lツインターボエンジンを搭載している。 価格は1億6000万ウォン(約1100万円)台。
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