주요 기사 바로가기

<韓国初女性大統領・朴槿恵が歩んできた道>(下)刃物で顔を切りつけられても(2)

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2012.12.21 16:37
0
1/2
2012年、世宗市(セジョンシ)庁舎建設現場を訪れ、現場の労働者と会話を交わしている(写真=中央フォト)。
<9>2011年、非常対策委員長に就任

ハンナラ党は昨年8月のソウル市無償給食投票の失敗、10月のソウル市長補欠選の敗北で、深刻な危機局面を迎えた。 朴槿恵の当初の大統領選挙構想は、2012年4月の総選挙局面から政治活動を再開するというものだった。 しかし昨年12月にDDoS事件が発生し、結局、洪準杓(ホン・ジュンピョ)代表体制が崩壊すると、朴槿恵はやむを得ず2004年に続き、また党の救援投手として早期登板することになった。

 
朴槿恵が党の非常対策委員長に就任した12月19日は、皮肉にも北朝鮮が金正日(キム・ジョンイル)の死去を公表した日だった。 朴槿恵は就任式の直後、北朝鮮関連緊急会議を主宰することで公式任務を始めた。

朴槿恵は金鐘仁(キム・ジョンイン)など過去に党内で見られなかった新しい類型の外部の人を非常対策委に招き、党の体質を変えようとした。 今年1月に金封筒事件までが浮上し、ハンナラ党のイメージが回復不能状態になると、朴槿恵はいっそのこと党名をセヌリ党に変えて党の象徴色も青から赤に変える破格的な変身を試みた。 党の政綱・政策にも経済民主化の概念を大幅に反映させ、ハンナラ党時代より理念的な指標を左寄りにした。

4月の総選挙の公認は党の主流が李明博系から自然に朴槿恵系に変わる契機となった。 政権審判世論が激しかったが、朴槿恵はセヌリ党が過去のハンナラ党とは違う新しい政治勢力というイメージを植え付けるのに力を注いだ。 こうした戦略が功を奏し、セヌリ党は4月の総選挙で152席という予想外の大勝を収めた。 12月の大統領選挙の予告編でもあった。

<10>2012年、過去めぐる会見

8月、大統領選挙のセヌリ党候補に選出された朴槿恵にとって最大のアキレス腱は過去の問題だった。 朴槿恵が維新・正修奨学会などの問題で明確な立場を出せず、野党は集中的にこの問題を攻撃した。 特に人民革命党事件に対する「2つの判決」発言は党内ですら「法的認識が足りない」という批判が出てくるほどだった。

朴槿恵は9月24日、維新時代の被害者と家族に謝罪する緊急会見を開いた。 朴槿恵は「政治で目的が手段を正当化できないのは過去も同じで、今後もそうであるべき民主主義の価値」とし「こうした点で5・16、維新、人民革命党事件は憲法の価値が損なわれ、大韓民国の政治発展を遅らせる結果をもたらした」と明らかにした。 過去に朴正煕元大統領の功績と過誤を半々ずつ言及した立場から一歩進んだものだった。 朴槿恵は「国民が私に本当に望んでいることは、娘の私が父の墓に唾を吐くことではないと考える」とも述べた。

この日の会見は、朴槿恵が過去史論争から脱出する転換点になった。 朴槿恵はその後、韓光玉(ハン・クァンオク)元民主党代表を国民大統合委首席副委員長として招聘し、積極的に産業化勢力と民主化勢力の和解を推進した。 朴槿恵は20日、次期大統領の国民に対するあいさつでも、「過去半世紀の間、極限分裂と葛藤をしてきた歴史の輪を和解と超党派策で断ち切る」と約束した。


<韓国初女性大統領・朴槿恵が歩んできた道>(下)刃物で顔を切りつけられても(1)

関連記事

最新記事

    もっと見る 0 / 0
    TOP