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張保皐、日本で「財福を与える神」になった理由(2)

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2009.10.09 10:23
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◇日本で財福与える神となった新羅人=張保皐(チャン・ボゴ)は新羅(B.C.57-A.D.935)時代に名字がなかった。幼年期には弓道に優れているからといって弓福、弓巴と呼ばれた。三国史記には、中国で使った漢字「張保皐」と表記された。学者らは、新羅では平民であるため名字がなかった同氏が、中国に渡り名字が必要になると「弓」を部首にした「張」を名字に選んだものと推測する。

また自身の名前「福」「巴」を中国語に解釈して「保皐」にするものの、軍人として活動したから保護するという意味の「保」を使ったということだ。ところが日本の歴史書「続日本後期」は、張保皐の漢字の名前に「宝」を使い、「張宝高」と表記している。なぜ漢字の表記が変わったのかを明確に説明してくれる歴史資料はない。崇実(スンシル)大学の金文経(キム・ムンギョン、歴史学)名誉教授は「当時の日本人にとっては張保皐が巨商、巨富と認識されていたという傍証」と説明した。

 
◇張保皐と取引すれば金持ちに=張保皐の船団が日本を行き来したという記述は数えきれないほど多い。現地の貴族は張保皐の船団が持ってくる新羅・唐・西域の物を好んだ。高官は先を争って張保皐と取引し、利権をめぐり争うこともあった。張保皐船団が交易を行った福岡(当時の筑前国)の太守・文屋宮田麻呂は退任後も本家がある京都に戻らず、同地に残り、張保皐と取引をしたほどだ。

同氏は842年、張保皐が暗殺されたと伝えられた後、当時日本入りしていたイ・チュン(張保皐の部下)の貨物を奪おうとした。物を受けとるため予めシルクを渡したが、張保皐が死んだからその代わりに貨物を差押えするということだった。現物取引が原則だった当時、異例の「信用取引」が行われていた痕跡(こんせき)だ。

啓明(ケミョン)大・国際学大学の李炳魯教授(イ・ビョンノ、日本学)は「文屋宮田麻呂は後ほど謀反事件にかかわったと追い込まれたが、張保皐との取引・利権をめぐった貴族の暗闘の結果という学説がある」とした上で「同事件は中央政府がかかわっていることから、当時張保皐のネットワークが京都の朝廷にまでつながっていたものと見なせる」という見方を表した。


張保皐、日箖で「財福を与える神」になった理由(1)

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