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<外交が力だ>(1)旧韓末救国外交…「1人公館」孤独な外交戦(下)

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2015.08.12 16:34
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ク教授は「国際情勢をしっかり読み取って卓越した見解を出したが、成し遂げられることはなかった。すでに韓半島での日本の優越的地位を認めた日英同盟と日露戦争がもたらす私たちの運命は明らかだった」と話した。

1904年末、日本が大韓帝国の海外公館の人員を減らそうとすると、李漢應は英国外務省に「『韓国がロンドンに全権公使を派遣するよう願う』という伝文を高宗(コジョン)に送ってほしい」と依頼する。キャンベルは「この小さな陰謀は、韓国代表部を強化しようとする意図」として無視した。

 
1905年2~3月に日露戦争の勝機をとらえた日本が平和条約の締結を議論した。李漢應はロシアが日本の韓半島占領を容認することを懸念して英国にこれを阻止してほしいという覚書を渡した。だが英国外務省は「当事国間の交渉」として断った。李漢應は自決前日の5月11日、外相面談を要請した後に返事がなく、命を絶った。「ああ、国の主権がなくなり人の平等を失って、ほぼすべての交渉で恥辱が極めて大きいだけだ。貧しく生きても恥が増すばかりだ」という遺書を残したまま。

駐英韓国文化院のポール・ウェイディ研究員は今年5月の独立記念館主催の学術大会で「最近、国立文書保管所で発見した記録によれば、李漢應は死ぬ前に暗号化した電報を破棄した。5月10日、日本の韓半島支配を英国が容認する内容の第2次日英同盟の草案が交換されたが、誰かが電報でこれを李漢應に知らせ、李漢應が絶望した末に自決を決心したのかもしれない」と明らかにした。李漢應の遺体は高宗の命により本国に送還された。乙巳勒約が締結された年の殉国1号となった彼の追悼会には数百人が集まったという。


<外交が力だ>(1)旧韓末救国外交…「1人公館」孤独な外交戦(上)

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