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<外交が力だ>(1)旧韓末救国外交…高宗の親書・密使外交(下)

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2015.08.12 15:42
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◆国際機構への参加=旧韓国の外交文書によれば高宗は1901年、スイス政府からジュネーブ協定案を入手する。戦争が起きた場合に赤十字社を活用できるという期待からだ。1902年10月、駐フランスおよび駐ベルギー公使ミン・ヨンチャンを特派隊員として任命して赤十字会議に参加しろと指示した。12月には加入の国書を渡して1903年1月に加入許可を受けた。国際機構への加入は、韓国が国際社会で独立国として認められたという意味がある。1905年にスタートした大韓赤十字社を日帝は1909年日本赤十字社朝鮮本部に格下げした。

オランダの万国平和会議への加入も推進した。1903年8月ミン・ヨンチャンを通じて「加入を急ぐ」という親書をオランダ大統領に送った。1904年にはヒョン・サンゴンを特使として派遣して万国平和会議とハーグ常設国際裁判所を訪問するよう指示する。だが平和会議は開会期間ではなく、裁判所は休廷中で、担当者接触に終わった。1907年第2次万国平和会議に李相イル(イ・サンソル)、李ジュン(イ・ジュン)、李ウィ鍾(イ・ウィジョン)らハーグ特使を派遣したのも、こうした努力の延長線上だった。これが高宗の退位(7月18日)につながった。

 
◆亡命政府の構想=高宗は退位後も抗日外交の意志を曲げなかった。1910年6月に側近を送ってロシアに「沿海州亡命政府」構想計画を伝えた。当時、上海駐在ロシア商務官の報告書には「高宗は逃亡(亡命)しようと心を決め、イ・ボムユンや咸鏡道(ハムギョンド)地域の義兵の助けを受けられる北側に1人で逃げる計画」と記されている。1918年には独立運動団体の新韓革命党主導で高宗を推戴する亡命政府の樹立が推進される。だが1919年1月、高宗が突然逝去し失敗に終わった。

国史編纂委員長をつとめたソウル大学の李泰鎮(イ・テジン)名誉教授は「高宗は儒教原則に立って私たちが誠意を尽くせば機会を得られるといった『信頼外交』『誠実外交』を行った」として「後日、臨時政府が外交活動を展開できる土台になった」と評価した。高麗(コリョ)大学のヒョン・グァンホ教授(韓国史学)は「過度に外勢の保障だけに執着していたのは問題だったが、外国の外交文書などを通して確認された高宗の外交活動量は大変なものだった」として「ほぼ毎日のように大韓帝国駐在の外国公使に会っていた。高宗のこうした努力が低く評価された傾向がある」と話した。


<外交が力だ>(1)旧韓末救国外交…高宗の親書・密使外交(上)

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