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【中央時評】民主社会の君主的な指導力=韓国(2)

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2015.01.15 14:24
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それで朴大統領の青瓦台(チョンワデ、大統領府)は自然と宮廷になった。宮廷では嘆願者の上訴と君主の許可だけが行き来する。承旨(スンジ、朝鮮時代の秘書官のようなもの)や内侍(ネシ、宦官のようなもの)らが熱心に仕事をし、宰相が君主と対面する必要がどこにあるのか。全員が君主の明快な指示どおりに動けば良い。国務委員たちの乱雑な討論は優雅な御前会議の品格を下げるだけだ。

君主と臣下の間に対話はありえない。誰が身分の低い人々と対等に胸襟を開くだろうか。唯一の例外は、北朝鮮の金正日(キム・ジョンイル)総書記だった。ありがたいことに金総書記は立ち位置の狭い自分が高貴な血統であることを認めて対等に接してくれた。朴大統領も金総書記も、初めて身分の対等な人に会って対話らしい対話をしたのだろう。朴大統領が金総書記の邪悪な武力攻撃に対して堅く口を閉じたのは、そのような事情を考慮してこそ説明できる。最も優雅に生きた君主サラディンが指摘した通り、「王は王を殺さない」。

 
幼少期から持ち続けた嗜好や考えは、年を取ったからといって変えることはできない。市民が何の話をしても、朴大統領は自身の姿勢を変えることはできない。今から変えようとすれば混乱だけが生まれる。変えることのできない指導力の特質を変えろと要求するのは、良いフェローシップ(followership)とは言えない。ある指導者が見せる指導力で長所と短所はある特質の別の面であるケースがよくある。短所を無理に直そうとすれば、長所が弱まる恐れもある。

民主社会ではフェローシップが指導力よりもむしろ重要だ。凝集力が弱い韓国社会では、より一層そうだ。窮極的に、市民が指導者を選ばないか。朴大統領の指導力には批判される面がもちろん少なくないが、長所も多いという事実を私たちは見逃してはならない。

朴大統領は自ら立てた以上を成し遂げようとそれなりの原則によって対応する。そんな姿勢は優雅だ。不幸にも、今は指導者の優雅さが崇拝される時代ではない。市民が、自分たちの嗜好を指導者に強要する時代だ。市民ににらまれた側近数人を変えることがそんなにも大変なのか。米国の詩人セアドー・レトキーの省察どおり、「自身に求愛することは致命的だ、姿勢がいくら優雅でも(It is fatal to woo yourself,However graceful the posture.)」。

ボク・ゴイル小説家


【中央時評】民主社会の君主的な指導力=韓国(1)

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