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日本の侵略の象徴「忠魂碑」、龍山から平沢へ

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2017.07.17 08:36
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満州事変戦死者忠魂碑など米軍龍山(ヨンサン)基地内の文化財56点が最近、平沢(ピョンテク)基地に搬出されたことが15日、確認された。戦死者忠魂碑は、日本が満州事変(1931年)当時に死亡した歩兵第20師団の旧日本軍兵士を追悼するため1935年に龍山基地に設置したものだ。忠魂碑は朝鮮総督府の建物とともに日本による植民地期間を代表する「ネガティブ文化財」に挙げられる。ネガティブ文化財とは、繰り返されてはいけない恥辱的、否定的な歴史が込められた文化財をいう。龍山基地内の近代建築物の沿革が記録されているプレートと李舜臣(イ・スンシン)銅像も米第8軍司令部の平沢基地移転に基いて搬出された。龍山基地内の文化財搬出が確認されたのは今回が初めてだ。

14日午後に訪れた龍山基地内では忠魂碑の跡さえ見えなかった。台石はもちろん、基壇、柱石も龍山基地には残っていなかった。忠魂碑の基壇があった基地内の花壇には新しく芝生が植えられていた。同行した在韓米軍の関係者は「韓国政府と協議して最近平沢基地に移した」と説明した。

 
中央SUNDAYの取材の結果、龍山基地の文化財搬出は昨年10月に始まった。米軍側が国防部在韓米軍基地移転事業団に文化財の搬出を要請する公文書を送ったのがその頃だ。国防部は文化財庁に関連公文書を伝えた。文化財庁は2カ月後の昨年12月、国防部に文化財の搬出を承認する公文書を送った。文化財庁の関係者は「専門家と文化財委員でチームを設けて基地内の現場調査を進め、その結果に基いて国防部に公文書を発送した」と述べた。在韓米軍は計68点の文化財の搬出を申請したが、12点については文化財庁が許可しなかった。この中には朝鮮時代に作られたと推定される「文人石」も含まれた。

文化財庁は搬出文化財と現場調査チーム名簿は公開しなかった。文化財庁の搬出承認に学界では反発が起きている。龍山基地内の文化財に対する発掘・内部調査など直接的な現場調査が行われなかったという理由からだ。1906年に旧日本軍兵たん基地として収用された後、龍山基地一帯は111年間、韓国政府の行政力が及ばない禁断の地だった。2006年以降3回にわたり龍山基地内の文化財に対する調査が行われたが、建物の外観などを調べる形式的な調査に終わった。米軍が軍事目的で活用している施設に対する内部調査はできないという在韓米軍地位協定(SOFA)規定のためだった。

キム・チョンス龍山文化院歴史文化研究室長は「忠魂碑は龍山基地に残っているネガティブ文化財のうち最も価値が高い」と説明した。キム室長は「日本が強制徴集した朝鮮人はこの基地で簡単な軍事教育を受け、忠魂碑の前で頭を下げるよう強要された。その後に戦場に連れて行かれた」とし「そのような歴史的な脈絡を考えれば、記念碑は龍山基地に保存しなければいけない」と述べた。

忠魂碑は日本による植民地時代と韓国戦争(朝鮮戦争)の悲しみの歴史が込められた文化財と評価される。在韓米軍は韓国戦争終戦後の1953年に龍山基地駐留を始め、忠魂碑の碑石だけを入れ替えて韓国戦争の米軍記念碑として使用した。その後78年間、韓米連合軍司令部庁舎が竣工したことで龍山基地メインポストに移転され、現在は平沢基地に移された状態だ。日本が設置した碑石はその跡さえも探せない。

文化財庁の文化財搬出承認は龍山基地の公園化を推進している政府部処間で行き違いがある。国土交通部が主軸となっている龍山公園造成推進企画団が年初に出した公園化計画にも外れる。国土部は在韓米軍の移転が完了する2019年から3年間、文化財など敷地現況および土壌汚染調査を実施する予定だ。これを通じて保存する価値が高い文化財を選定し、国家公園として造成される龍山に残す計画という。シン・ジュベク延世大HK研究教授(韓国史)は「龍山基地は日本の植民地支配と冷戦、韓半島(朝鮮半島)分断を同時に抱える世界で唯一の空間」と述べた。シン教授は「平沢基地は市民が自由に接近できないうえ、歴史的な意味が何もない空間であるため、搬出承認を取り消して記念碑を龍山に戻すべきだ」と主張した。

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