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【グローバルアイ】正男評伝

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2017.02.28 17:13
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彼は讓寧大君を夢見た。表に見える彼の姿は権力闘争とは距離があった。彼は「父に似た面もあって似ていない面もある」と話したことがあるが、決定的に似ていない点は権力意志の有無だった。彼は「政治と関係がない人間」だと機会があるたびに強調した。もしかすると彼は最初から後継者になる運命でないことを知っていたのかもしれない。後継者を夢見るほど自分の身辺が危険になるという事実も本能的に知っていた。これは出生の秘密と幼時期の体験、長い海外生活と自由奔放な性格が交わった結果だった。

彼は白頭(ペクドゥ)血統の一員だが、「神の祝福」を受けて生まれたわけではなかった。彼の国で神のような存在の祖父には出生の事実が秘密にされたのだ。父の金正日(キム・ジョンイル)総書記が人妻、それも祖父・金日成(キム・イルソン)主席が好んだ作家・李箕永(イ・ギヨン)氏の息子の夫人(成ヘ琳)との間に生まれた子どもだったからだ。彼が祖父を「おじいさん」と呼んだのは5歳を過ぎてからだった。母はこのような環境でうつ病になり、モスクワへ療養に行った。彼は叔母の手で外部と隔離されて育った。唯一共に過ごした叔母の息子の李韓永(イ・ハンヨン)は1982年に韓国に亡命し、97年に銃撃を受けて死亡した。彼を育てた叔母と叔父は米国に亡命している。家族と変わらない人たちがみんな敵対国に亡命し、彼の母も一時は亡命を図ったため、共和国の指導者になるには致命的な欠格事由だった。

 
9年余りの留学生活を終えて戻る頃、彼は外部の世界と違う祖国の現実を熟知していた。平壌(ピョンヤン)での生活は外国で長く過ごした彼に合わなかったし、父もそのような彼を好まなかった。彼は後に「完全に資本主義の青年に成長し、北朝鮮に戻った時から父は私を警戒していた」と述懐した。

本格的な讓寧大君生活は、95年に北京に出て暮らすことになった時からだった。彼は何度か日本に出入りした。東京の赤坂に行き付けの酒屋があるほどだった。韓国人客が多いところで韓国人の従業員と夜通し交流した。札束が入ったかばんを持ち歩き、従業員に宝石をプレゼントしたりもした。彼が後継者だったなら、また後継者になりたいという考えが少しでもあったとすれば、そのような他人の目につくことはしなかったはずだ。2001年の「ディズニーランド事件」以前から彼は後継者競争とは関係のない讓寧の道を歩んでいたということだ。

にもかかわらず異母弟は彼を危険な存在と考えたのかもしれない。「中国式の改革・開放だけが生きる道」と公然と話した彼を擁立しようとする外国政府の秘密計画があるのではと疑ったのかもしれない。歴史の中の讓寧も一時は弟の世宗(セジョン)から疑われた。しかし結局は和解して天寿を全うした。それが彼と讓寧の大きな違いだった。46年という短い人生、自分の意志で自分の人生を開拓できず虚しく生涯を終えたという点では、この地の多くの分断犠牲者と違うところはなかった。

イェ・ヨンジュン北京総局長

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