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【BOOK】魚、私たちが知らなかった韓日民間外交官

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2015.02.05 16:20
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『韓日フィッシュロード』

竹国友康著 オ・クンヨン訳、

 
出版:タビ、368ページ

価格:1万8000ウォン(約1900円)

「中国と西域の間に古代シルクロードがあったなら、韓国と日本の間には近現代フィッシュロードがある」。日本の現代文学教授でありドキュメンタリーを撮影するように現場を現地調査して得た情報で本を書く踏査ジャーナリストとして活動中の著者、竹国友康の主張だ。

著者の韓日フィッシュロード踏査は未明の風が激しい釜山港から始まる。韓国と日本をつなぐフェリーには、日本各地のナンバープレートを付けたトラックが載せられてくる。釜山港に上陸した日本のトラックは日本で漁獲されたが韓国人が好む水産物を下ろし、韓国で漁獲されたが日本人が好む水産物を載せて出発する。著者は韓日両国がこのように多様で大量の水産物で交流していることに驚く。フェリーが日本から水産物を積んだトラックを運んでくるこの現場も、今後、有名な観光の対象になるかもしれない。未明のチャガルチ水産物競売場とともにだ。

著者は大阪の立ち飲み屋で出てくるヒラメは釜山からトラックで運ばれたもので、京都の料理店の高級名物料理「ハモのおとし」の材料の多くは韓国産という事実に注目する。日本で韓国産ハモは日本産より高値で取引されるという。水産物交易こそ、お互い相手が好むものを良い値で売り、みんなが利益を得られる貴重な経済活動ということだ。水産物交易は長い間、韓日関係の潤滑油だった。

韓日間の大規模交易の対象となった最初の魚がメンタイだ。正確に言えば明太子だ。日本語でメンタイは「スケトラダラ」という正式名称があるが、辛子明太子や明太という言葉がよく使われる。著者はこの言葉が韓国から入ったと指摘している。明太子は日本人が好きな食べ物の一つだ。日帝強占期、朝鮮総督府殖産局水産課で勤務していた鄭文基(チョン・ムンギ)は、1936年に発表した「朝鮮明太魚」という論文で、この明太子が日本はもちろん中国や満州にまで送られたと記録している。この論文には「明太子が最も多く消費される地方が下関で、次いで京城(ソウル)・釜山・東京・咸興(ハムフン)・大邱(テグ)の順」となっている。34年の統計にある明太子取扱量は下関が7万1728箱、2位の京城は1万3295箱と、1位と2位の差が大きい。日本人はメンタイを食べることはほとんどないが、明太子はすでに日帝強占期の日本人の食卓に人気食品として並んでいたことが分かる。

ビタミンAが豊富で目によいメンタイの肝油もこの頃、薬用として製造され始めた。鄭文基の論文に出てくる「生産地で灯火用の油として消費されただけで、そのほかには特に利用されなかったが、最近は薬用肝油を製造し始め、ほとんどがこの原料として消費され始めた」という部分が根拠だ。幼い頃から目がよくなるようにと食べた肝油の起源を発見できる瞬間だ。

メンタイは魚の煎(チョン)や干し物の形で祭事や厄除け用に使われるなど、民間信仰とも関係が深い。これに関し、著者は食品という枠だけにとどまらず、韓国人の精神的な領域にも深く関係していると指摘する。一度に25万-40万個の卵を産み、捨てる部分が全くないため、呪術と関係を持つことになったと考えられる。それだけ韓国人の生活で極めて重要な魚ということだ。

メンタイ漁は18世紀半ばから韓国で活気を帯び、どこでも食べない人はいないほどだった。しかし稚魚の乱獲などの理由で統計上の漁獲量は「0」となった。残念でならない。今はロシアから冷凍状態で、日本北海道から冷蔵状態で輸入される。両国は国内で消費せず、ただ輸出のためにメンタイを漁獲する。韓国の海からはもう消えてしまったメンタイを考えながら、ファンテヘジャングク(干しダラスープ)の温かさを思い出す人は著者だけではないはずだ。「どの海でもかまわないから必ず永遠に生き残ってほしい」という著者の思いは切実だ。

著者は韓国魚類学研究の先駆者である鄭文基(1898-1995)を紹介する。全羅南道順天(スンチョン)出身で、中央学校(現中央高)を出て東京帝国大学農学部水産学科で勉強した人物だ。鄭文基は朝鮮人の手で朝鮮水産業を発展させるという考えで、法学が全盛期だった当時、あえて水産学を専攻に選んだ。鄭文基は日本の水産学者らと交流しながら情報を交換したが、この過程で日本銀行総裁で漁業などを研究した民俗学者でもある渋沢敬三(1896-1963)とも縁を結んだ。茶山丁若鏞(チョン・ヤクヨン)の兄の丁若銓(チョン・ヤクジョン)が黒山島(フクサンド)に流刑中だった1814年に書いた水産物報告書『茲山魚譜』を鄭文基が現代韓国語にする作業をしながら渋沢の助けを受けたりもした。韓国と日本は水産業の収穫物だけでなく研究でも活発に交流した。釜山影島(ヨンド)南港洞にあった朝鮮総督府水産試験場の37年の姿、50年代の江原道沿岸のメンタイ延縄漁の光景など写真資料も目を引く。

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