【時視各角】「表現の自由」の意味をはき違えていた韓国国会議員(2)
ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2017.02.01 13:59
「表現の自由」ならば、筆者も決死の覚悟で守らなければなければならないと主張する一人だ。言路の道が塞がってしまった一方的社会の野蛮性が怖いからだ。だが、表現の自由も「自由」だ。自由はいつも二重性を持つ。節制しなければ、知的省察がなければ、そのままにしておけば、それ自体が暴力と野蛮に変わるのが常だ。そのため、表現の自由を守ろうとする者は、いつもこれを口実にする悪質な発言や暴力、偏見や嫌悪をどのように管理するか深く考える義務がある。
世界の自由陣営国家のうち、宗教および人種問題による嫌悪発言が相次ぎ、暴力としても無視できない勢いを時として持つ米国や日本、欧州のような国々が「ヘイトスピーチ」を禁じて処罰する方法を施行しているのもそのような悩みの結果だ。暴力と野蛮を封じ込めるために「表現の自由」の一部を統制しているのだ。文明を守るには、「汚い欲望」を排泄する言語や行為までが守られるべき表現だと主張してはいけないということだ。表現の自由は、低級な欲望や分裂的感性を取り除く集団知性の上で守られる。
われわれはいま、大統領弾劾事態を法治により理性的かつ合理的に解決していこうと努力しているところだ。大統領が分裂の感性を刺激し、敵味方を分けようとしている渦中も、われわれ国民はそれに巻き込まれまいと、どれほど忍耐強く努力していることか。今回のことは、単に才勝薄徳な(才知はあるが徳がそれほどない)国会議員の失敗としてやり過ごすには、彼の「表現の自由」に対する無省察がもたらした騒動は弊害が大きかった。社会の談論水準まで貶めたからだ。だが、彼を国会議員に選んでこのような活動をさせたのも国民だ。だから恥じることはいつもわれわれの役割なのかもしれない。