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日本歴史探訪、行く前には反日… 行ってみたら知日

2007.02.02 16:39
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「『歴史を歪曲する日本』ではない多様な日本の姿をしっかり見る契機になりました。東アジアの平和のために、無条件的な反日ではなく、しっかり日本を把握し、自分たちの力を育てなければならないと考えるようになりました」(ミン・ウンギ、ハンヨン外国語高校3年)。

「韓国の立場で過去の被害を意識して間違ったことは直さなければならないが、相手の立場を考えてみることも重要だということを学びました。韓国史と世界史を切り離して見てはいけないとも思いました」(ノ・ミネ、全州サンサン高2年)。

 
漠然としていた「反日感情」は、現場体験を通じて「知日」に変わった。「韓国史」を背負って日本探訪をしてきた第1回韓国史能力検定試験(以下歴試)成績優秀者たちの話だ。

第1回「歴試」で等級別満点を受けた生徒ら30人で構成された海外歴史探訪団が1月27日から31日まで日本の九州地域を踏査した。国史編纂委員会(委員長ユ・ヨンリョル)が主観、中央日報が後援した。

壬辰倭乱(イムジンウェラン、文禄の役)時、日本軍の急先鋒だった加藤清正が1607年に建立した熊本城。今年、築城400周年を迎えた。「日本の中の韓国文化」をテーマにした踏査は福岡~佐賀~熊本~鹿児島へとつながった。鹿児島は韓国を征伐しようとする征韓論の中心とされる所。代表的首唱者である西郷隆盛の故郷だ。佐賀には壬辰倭乱時に出兵の拠点として作った名護屋城も残っている。

九州探訪を通じて「日本の二つの顔」が見えた。最初の訪問先である名護屋城の博物館は韓日文化交流を祈願する平和の場に変貌していた。「自殺攻撃隊」神風を記念する鹿児島の特攻平和会館には日本が平和という名でいくら隠そうとしても隠せない攻撃の残忍さを感じることができた。

◆日本と日本人の多面性=九州地域は韓日歴史歪曲と対立の争点地域にもかかわらず、この地域は非常に親韓国的な姿をしていた。バス案内板や通りの地名、観光地の案内文などをすべてハングルで表記していた。通りはこぎれいで、人々は親切だった。

名護屋城博物館は圧巻だった。歴史歪曲の説明を連想して入った人々の前には、壬辰倭乱と日帝強占期時の日本の侵略についてと韓国人が受けた苦痛が日本語と韓国語で書かれた案内板があった。「韓日文化交流の架け橋」に見えた。

福岡で会った九州大学韓国研究センター所長稲葉継雄教授 (60)は、日本の極右性向歴史教科書を作る人々に対し「極少数の気がおかしい人々」と批判し「日本教育界はいまだに良心がある」と強調した。

鹿児島南端に位置した神風特攻平和会館には日本人の別の顔があった。太平洋戦争末期、戦闘機1台に乗って米軍の戦艦に飛んで入った「自殺攻撃台」神風を記念する所だ。特攻隊員戦死者たちの写真が展示館にはあった。その同じ不幸な歴史が繰り返されないために記念館を作ったとあるが「特攻」と「平和」という異質的用語を組み合わせたことで、日本の両面性が表れていた。1036人の特攻隊員のうち11人の朝鮮人の名前も見えた。

◆歴史の傷を顧みる=日本の中の韓国文化の名残りは九州のあちこちに散在していた。過去への旅行は三国時代-朝鮮時代-日帝強点期の韓日関係史を短い時間に見られるよう展開されていた。

百済(ペクチェ)武烈王陵出土品と類似した遺物が出た船山古墳群では韓日考古学界での争点事項である前方後円墳の存在をはっきり確認することができた。壬辰倭乱時、加藤清正が戦争の終わった後の1607年に建立した熊本城では、今年、築城400周年を記念する文字が派手にひるがえっていた。彼らには記念行事だったが、我々には痛い過去を振り返らせるものとして近付いてきた。

一方、鹿児島県には壬辰倭乱時、連行された朝鮮陶磁器技術をそっくりそのまま伝授した沈寿官(シム・スグァン)陶芸址が一行を待っていた。明成皇后を殺害した刀が収蔵されているという櫛田神社など韓国文化の跡を訪れることは、痛い国史の傷あとを探す過程でもあった。

忠南(チュンナム)テアン女子中学パク・チョンヒ教諭(46)は「今回、歴史探訪を通じて一方的思考ではない双方向の目を育てることができた」とし「もっと多くの人が『歴試』を通じて歴史を見る新しい目を育てるよう制度化されることを期待したい」と話した。

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