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<大リーグ>「柳賢振と韓国野球の実力、5年前のWBCで知った」(2)

ⓒ韓国経済新聞/中央日報日本語版2014.06.09 15:44
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バレンズエラ氏の活躍は南部カリフォルニア地域で厳しい移民生活をしていたメキシカンを野球場に引き込んだ。サッカーやボクシングにばかり関心があったメキシコ人は、バレンズエラ氏の34番が入ったドジャースのユニフォームを買い、野球に熱狂し始めた。

結局、メジャーデビュー初年度の81年、13勝(7敗)の成績でサイ・ヤング賞と新人王を同時に獲得し、ニューヨーク・ヤンキースとのワールドシリーズでも4勝2敗で逆転優勝した。その後は6年連続でナショナルリーグのオールスターに選ばれるほど活躍した。

 
さえない容貌にスポーツ選手らしくない腹が突き出た体型のバレンズエラ氏は、英語を一言も分からない状況で「サイ・ヤングが誰か私は知らない」と話し、大きな話題になったりもした。相手チームの打者は全盛期時代のバレンズエラ氏が先発する日、「今日は期待してはいけない」とし、試合を半分ほどあきらめることも多かった。81-90年にドジャーブルーユニホームを着て「フェルナンドマニア」という新造語を誕生させ、86年に21勝、90年にはノーヒットノーランの偉業を達成した。

しかしバレンズエラ氏は「ワールドシリーズでもっと優勝できなかったのが残念だ」と話した。特にプレーオフでセントルイス・カージナルスの壁にいつも阻まれたことを振り返った。「相手チームが最高の遊撃手オジー・スミスと名将ホワイティ・ハーゾグ監督を保有しているうえ、機動力も優れていたため」だったという。

バレンズエラ氏は一時、自分の最初の職場であり安らぎの場だったドジャースと縁を切ったりもした。球団が世代交代を模索する中、バレンズエラ氏の実力も下降線を描き始めると、91年、継父のように思っていたラソーダ監督はバレンズエラ氏にLAエンゼルスへのトレード通知をした。予想できない衝撃を受けたバレンズエラ氏は99年、ドジャース側のスプリングキャンプを拒否した。「引退した後も10年以上はドジャースタジアム付近には行かなかった」という。

偶然にもバレンズエラ氏が離れた後、ドジャースは数十年間、頂点に立つことができなかった。これを現地のメキシコ人は「バレンズエラの呪い」ともいう。しかし知人の忠告を聞き、結局、古巣チームと和解することに決心したという。バレンズエラ氏は現在、ラテン系ファンのためにドジャースのホーム試合がある度にテレビ・ラジオのスペイン語解説を担当している。また、毎年1回ずつドジャースタジアムで行われる元選手中心の「オールドタイマーゲーム」にも参加し、ファンサービスをしている。

インタビューを終えたバレンズエラ氏は放送中継室へ向かい、「多くの韓国の野球選手も私のようにアメリカンドリームを夢見てほしい」という言葉を残した。

(中央SUNDAY第378号)


<大リーグ>「柳賢振と韓国野球の実춗、5年前のWBCで知った」(1)

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