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【噴水台】ブッシュと福沢

2002.02.21 22:03
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『旅情』『去年の夏突然に』『黄昏』でよく知られた米女優キャサリン・ヘップバーンの祖父は、プリンストン大出身の医師兼宣教師、カティス・ヘップバーン(1815~1911)だ。

長老教会所属だったカティス・ヘップバーンが日本に派遣されたのが1859年、任地は港町の横浜だった。

 
ヘップバーンは、ここで病院を開院し、キリスト教の伝導と聖書の翻訳・教育事業に力を注いだ。日本初の和英辞書である『和英語林集成』(1867年)も同氏の業績として挙げられる。

ヘップバーンが横浜に定着したその年の1859年、野心満々な24歳の日本青年、福沢諭吉も初めて横浜を訪れた。

静かな漁村だった横浜は、1年前の1858年、外国に開港し西洋文物が波のように押し寄せていた。

秀才の福沢は、当時日本の「第1外国語」だったオランダ語を学んだ後、江戸(現在の東京)に上京し、オランダ語の教師として在職していた。

「開放された横浜の実像を確認するため見物に出た。外国人らが商店を設け、物を売っていた。

しかし、ちっとも言葉が通じなかった。商店の看板も、瓶に付けられたラベルも読み取れなかった。必死に勉強したオランダ語が水の泡になったという事実に落胆した。ここの言語と文字は英語に間違いない。

今日本は条約を結んで門戸を開放している。英語を知らなければ何もできない。明日から気持ちを改めて英語を勉強することにした」

福沢は自伝で当時の衝撃を鮮明に述懐している。同氏は、決心した通り独学で英語をマスターした。

それだけでなく、多様な翻訳・著述を通じて西洋学術・科学用語を日本語に移すことによって、日本はもちろん韓国・中国にまで大きな影響を及ぼした。

演説(speech)、賛成(second)、討論(debate)などが福沢が作った単語だ。同氏が作った単語「競争(きょうそう)」は英語「competition」の訳語だった。

数日前、ブッシュ米大統領が日本の議会での演説で、福沢氏を例にとり「同氏は日本語になかった『競争』という単語を作り、日本語を豊富にしただけでなく、日本経済の発展にも寄与した」と言及した。

競争原理を前面に出し徹底した構造改革を迂迴的に促した、意味深い修辞だった。堅苦しく終始緊張感が漂っていた訪韓時の諸発言とはまるで違う。

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