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92歳の軍艦島生存者「海底1000メートル坑道、殴打は日常だった」(2)

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2017.08.11 14:13
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事故にあった同僚は遺体で坑道を出て行った。死を目撃するたびに母が思い出した。「海の彼方に陸地が見えた。着きそうだった。それでは、どこか私の故郷があるだろうと。星はどこにでも同じだから、夜に星を見て故郷や親を思い出したり…」。

肉体労働を強いられた韓国人が死ねば、軍艦島の隣にある小さい島の火葬場で遺体を焼いた。遺体が焼くにおいが島を覆った。

 
「月給はその時の金で220ウォン。整備費・洗濯費・食費などを除けば150ウォンだったよ。韓国でうどん一杯が5銭、日給が35銭だったから少ない金額ではなかった。だが、それを5年満期の債券でもらった。結局、何も受けられなかった」

1945年7月、日本人監督官はイさんに令状を渡した。旧日本軍として徴集されて軍艦島を離れた。広島から汽車で1時間ぐらい行って呉に下りた。一日も欠かさず爆弾を持って米軍装甲車に自爆する訓練を受けた。約40日が過ぎた8月15日昼休み、奇跡がやってきた。部隊のラジオで天皇の降参放送を聞いた。「2番目の原子爆弾が落ちたと聞いた時、『戦争が終わるかな。私も生きられるだろうか。それとも米軍装甲車が入ってくるから私は死ぬだろうか』など色んな気がした。ラジオで天皇が降参宣言をした時『あ、生きたんだな』と思った」。

1945年8月27日、イさんは故国の地を踏んだ。イさんはその後、1950年6・25韓国動乱(朝鮮戦争)の時、慶州(キョンジュ)の安康(アンカン)の戦いと浦項(ポハン)の兄山江(ヒョンサンガン)戦闘に参戦した。その功績で忠武武功勲章を受けた。足を銃に撃たれて負傷した彼は、障害7級の傷痍軍人だ。その後、消防隊員としても働いたという彼は軍艦島での経験を10年前まで子供たちにも話さなかった。つらい記憶を思い出させたくなかったからだ。息子のイ・サンモクさん(67)は「幼いごろ、父がお金をもうけるために日本に行ってきたという話だけで軍艦島の話はしなかった。ある日、一人でソウルに行って調査委員会から強制徴用被害者として認められたと子供たちにおっしゃった」と話した。

イ・イヌさんはため息がつきながら独り言でインタビューを終えた。「数十年間、軍艦島の強制徴用について誰も関心がなかっただろう。私は愛国者でなく生存者であるだけだ。ただし、この国が、若い人々が軍艦島でこのようなことがあったということを分かってほしい。国はこれまで何をしてきたのか。すでに遅きに失した。みんな死んで、もう誰もいないじゃない。およそ10年前でも話が出たなら、互いに会うこともできたはずだが…」。

日帝強制動員被害者支援財団によると、軍艦島に強制動員された朝鮮人は500~800人、当時の死亡者は121人だ。現在、韓国の生存者はイさんを含めて6人だ。


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    2017.08.11 14:13
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    イ・イヌさんが6・25戦争参戦で受けた忠武武功勲章を手に固く握っている。
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