【コラム】駐韓米国大使リパード氏の韓国手習い(2)
ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2014.11.27 10:28
2002年、ロウソクのともしびは反米だった。その年の6月、米軍車両の女子中学生圧死事件が起きた。盧武鉉(ノ・ムヒョン)・李会昌(イ・フェチャン)が激突した。大統領選挙の年だった。ワールドカップの熱気は、米軍糾弾のロウソクのともしびへと移った。11月末、在韓米軍の裁判が開かれた。米軍車両の兵士たちの無罪評決。ロウソク集会デモは絶頂に向かった。
トーマス・ハーバード(T.Hubbard)大使は大変な苦労をした。評決時点をめぐってさまざまな議論があった。無罪は予想されていた。それなら「なぜ評決を大統領選挙後に遅らせなかったのか」。ソウルの米国大使館は状況を誤認していた。ハーバードは韓国人の情緒に鈍感だった。
クリストファー・ヒル(C.Hill)はスター大使だった。彼は朝米交渉を主導した。駐韓大使とその後の国務部次官補の時期だ。ヒルと北朝鮮の金桂寛(キム・ケグァン)外務次官の交渉テーブルは派手なものだった。だが北朝鮮は最後の瞬間に変わった。北朝鮮の核放棄の交渉は失敗した。