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「日本皇太子が頭を下げて通るのは…」 ソウル崇礼門の城郭を撤去(2)

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2013.01.08 14:49
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◇電車の事故も多発=『高宗実録』高宗44年(1907年) 3月の記録には、議政府参政大臣の朴斉純(パク・ジェスン)らが高宗皇帝に崇礼門の左右の城郭を8間ずつ取り壊すことを要請する内容が出てくる。「崇礼門の周辺は人々で混雑し、車や馬が頻繁に出入りし、電車がその真ん中を通るので接触事故が頻発する」というのが理由だ。

続いて同年6月には、内閣総理大臣の李完用(イ・ワンヨン)らが興仁之門(東大門)と崇礼門の周辺の残りの城郭まですべて撤去することを王に求め、許諾を受けたという内容が記録されている。

 
これに先立ち、1899年5月には、敦義門(西大門)から興仁之門を通って清涼里に向かう電車が、12月には鍾路から崇礼門を通って竜山へ向かう電車が開通した。

門を通過する電車と馬車、人々で崇礼門の周辺は混雑した。このため1907-08年、崇礼門と興仁之門の両側の城郭が取り壊された。

1910年の韓日強制併合後は城郭の撤去が本格化し、1913年に南山と獎忠洞の間の城郭をはじめ、漢陽都城の城郭が徐々に消えていった。

◇原形を復元する=崇礼門城郭復旧工事は08年の火災前から計画されていて、復元工事とともに本格的に施行された。 工事に使われた1362立法メートル(石垣復旧工事分含む)の石はほとんどが京畿道抱川の花崗岩だ。

朝鮮王朝実録の記録と1900年代初めの崇礼門の写真などを参考に高さを4-6メートルとし、上側になるほど石の大きさが小さくなる築造形式も復元した。

工事責任者の重要無形文化財第120号、イ・ウィサン石匠は「残っているソウル城郭の石と抱川の石の成分は95%以上一致する。 城郭の復元は城壁で囲まれたソウルの原形を復元する重要な作業」と述べた。

城郭復元のほか、1963年の崇礼門解体・復元工事で短くなった棟木の長さを0.9メートル延ばして元通りにした。 一層の屋根にある雑像(魔除けの像)も「雑像は奇数」という朝鮮時代の原則に基づき、8つから7つに減らした。 火災防止のために崇礼門内の外部に炎感知器(16個)と熱感知器(長さ200メートル)、スプリンクラー(ヘッド約140個)とCCTV12台も設置される。


「日本皇太子が頭を下げて通るのは…」 ソウル崇礼門の城郭を撤去(1)

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