静かだった党創建日…北、金正日総書記推戴20年をより盛大に祝う(2)

静かだった党創建日…北、金正日総書記推戴20年をより盛大に祝う(2)

2017年10月11日10時42分
[ⓒ 中央日報/中央日報日本語版]
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  解放約1カ月後に平壌に帰ってきた金日成はソ連の後援を受けて北朝鮮地域で党権掌握に注力した。

  現代史研究所のチョン・チャンヒョン所長は「勢力が弱かった金日成は、当時朴憲永(パク・ホンヨン)や武亭(ム・ジョン)ら南朝鮮労働党系(南労党派、国内派とも)と延安派が主軸の共産主義勢力争いの隙をねらった」とし「朴憲永がソウルに朝鮮共産党を創立すると、金日成は北朝鮮地域の党幹部を集めて『西北5島の責任者および熱誠者大会』を開いて北朝鮮分局を設置した」と説明した。北朝鮮はこの日を党創建記念日としている。

  その後、米ソによる軍政が実施されるようになると、共産主義者らが平壌に集まり、北朝鮮はパルチサン派(金日成)、南労党派(朴憲永)、延安派〔金ドゥ奉(キム・ドゥボン)〕、ソ連派〔許哥誼(ホ・ガイ)〕らの連合体制で出発した。しかし、韓国戦争(朝鮮戦争)直後、金日成が朴憲永や李承ヨプ(イ・スンヨプ)ら南労党派をスパイ容疑で処刑した。許哥誼も戦争直前に死亡した。1956年8月に起きた宗派事件は金日成単独体制としてスタートする契機になった。仁済(インジェ)大学統一学部のチン・ヒグァン教授は「延安派だった尹公欽(ユン・ゴンフム)らが主軸となって金日成を退けようとしたが、事前に発覚して金日成によるカウンター・クーデターで延安派とソ連派が大々的に粛清された」とし「67年には朴金チョル(パク・クムチョル)・李孝淳(イ・ヒョスン)ら甲山派を、69年には金昌奉(キム・チャンボン)・許鳳学(ホ・ボンハク)など軍部実力者を除去して1人支配体制を構築した」と説明した。

  金正日は家族との闘争、すなわち「白頭(ペクトゥ)血統」間の戦いで勝利を収めて権力を手中に収めた。70年代、金日成の後妻である金聖愛(キム・ソンエ)の発言権が強くなると、呉振宇(オ・ジンウ)らパルチサン派の支援を受けて金正日を後継者に内定させた。この過程で金聖愛の息子である金平一(キム・ピョンイル)らは海外大使として派遣されたまま、今もまだ帰国できずにいる。また、金正日の叔父であり金日成の実弟で、組織指導部長だった金英柱(キム・ヨンジュ)も75年に失脚させられた。

静かだった党創建日…北、金正日総書記推戴20年をより盛大に祝う(1)

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