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<宋虎根コラム>「菊と刀」そして軍隊慰安婦

2007.05.08 09:07
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日本軍慰安婦問題ほど解けない歴史的難題も珍しい。国際的非難を冒すとしても絶対否定の立場を固守する日本の硬直した態度による。この問題が整理されずには歴史的和解は不可能だという話だ。先月末、米国を訪問した安倍晋三日本首相も例外ではなかった。首相が米国議会議員たちに謝ったという内容がこうだ。「20世紀は人権侵害が多かった時代が日本もそれに無関係ではなかった。苦痛と困難をしいられた慰安婦の方々に、そんな状況に置かれたことを日本首相として申し訳なく思う」

この発言は間接話法だ。日本も歴史の荒波にのまれて避けきれなかったという言い訳であると同時に、慰安婦問題において動員した疑いをとり除こうとする話術だ。ホロコースト博物館を建立するほどに真正性を見せるドイツとは違い、どうして日本は戦争責任と係わるすべての争点でむしろ自分を被害者とし、生存する慰安婦たちの血なまぐさい証言が続く状況でも間接話法に固執しているのか。歴史で人よりもっと確かな証拠がどこにあるか、動員の強制性を立証する歴史的文件を探してみろと強弁する姿には戸惑ってしまう。

 
日本を理解する古典であるルース・ベネディクトの『菊と刀』(1946)は我々の戸惑いを少しほぐしてくれる。降参1週間前に竹窓を持って決死抗戦を叫んでいた日本軍が、天皇の敗戦放送を聞くと米軍を熱烈に歓迎する態度にうって変わった状況を、世紀の人類学者は「名誉」で解く。世界で日本の地位を高めるための戦争が失敗すると、天皇の沈痛な声とともに「敗戦国の名誉回復」に彼らの目標を素早く変えたのだ。日本の国民的心性を細かく観察したベネディクトはこう言う。「日本人の永遠不滅の目標は名誉だ。この目的のための手段はそのときの事情によって扱われたり捨てられたりする道具であるだけだ」それで審美の象徴である「菊」と暴力の象徴である「刀」が歴史的局面でうまく交差する。敗戦によって刀から菊に変えることを強要されると加害の記憶が自然に消されたのだ。いや、加害者の観点を捨てなければならなかった。ところで慰安婦問題は名誉回復を邪魔する最大の障害物だった。犠牲者たちのあらゆる証言があふれ出ても自分のしたことではないと一貫してきた心理的背景だ。

名誉回復に向けたこの態度豹変の現象は論理的矛盾を内包する。心理方程式の両辺が違うからだが、「そのどこにもない」という歴史的文件を探し出して方程式の両辺を揺さぶるのが慰安婦問題を解く最も威力的な鍵だ。日本の記憶喪失症が意図的であることを喚起させるほど確かな戦略はない。ところで先日、そんなことが実際に起こった。

「日本軍、性の奴隷制」を発行したソウル大チョン・チンソン教授がオランダ国立記録物保存所で日本軍による強制動員事実を立証する公式文件を見つけ出して国内に知らせたことだ(オランダ情報将校ヘイブルック大尉作成、秘密文書原本#5309)。しかし国内メディアはつまらないといって応じた。その文件の発見が果たして「最初なのか」に焦点が合わせられ、6年前に翻訳されたある本に心もち短く言及されているというのを持ち出して「興奮した研究者」のハプニングとして扱った。数日後、関連文書何点かを新たに掘り出したという日本学者の報告を特筆大書したのとは対照的だった。作成者の署名や文書番号もない筆写本であったにもかかわらずだ。そんな中、安倍首相はブッシュ大統領と米国議員たちに間接話法の言い訳を言っていた。

「菊と刀」が日本の国民心性を集約するコードなら、韓国人の集団心は「蘭と筆」だ。審美性(菊)と残酷(刀)の相反した価値観は日本語で恥嫌悪症につながる。この不等価方程式は恥辱回避のためなら絢爛たる色彩と態度突変の方式を動員する。一方、韓国的心性の要諦は無彩色と透明性だ。蘭は無彩色に最も近い花であり、暴力より精神世界の一貫性を追い求めた。両者はいつも等価だった。ところで筆の精神を代弁するメディアが日本の集団心理を突き通して見るどころか日本発ニュースと昔の話に現を抜かしている限り、日本軍慰安婦問題に主導権を行使することは遥かに遠い。

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