日本語できず野次を受けた“バイト”歌手、日本舞台でシンデレラに(2)
ⓒ韓国経済新聞/中央日報日本語版2014.11.04 14:50
何よりも大変だったのは歌に対する負担だった。彼女が歌う「メモリー(memory)」は歌1曲で勝負する「キャッツ」の代表曲だったからだ。あまりにも多くの練習をし、首の筋肉が記憶するほどだったが、25歳の彼女が人生の喜怒哀楽が込められた曲をこなすのは決して容易なことではなかった。同じ歌を毎日、2年以上も歌い、機械になるような感じのため、やめたいと思うことも多かった。しかし彼女はあきらめず、歌詞の意味を分析することに集中した。歌に込められた香りと味、臭いまで体で感じて歌うことができるまで。このように完成されたキム・ジヒョンの「メモリー」は多くの日本人の胸に響いた。最も苦しんだ歌が結局、彼女を輝かせたのだ。このようにキム・ジヒョンは『キャッツ』だけで700回、『ライオンキング』でラフィキ役で800回の公演という大記録を作り、四季の看板女優となった。公演のたびに熱狂ファンを雲のようにつれて歩くほどだった。
当時引き受けた配役は「この役だけは絶対に避けたい」というのがほとんどだった。ある時は1週間、一日に1作品ずつ4つの作品に同時出演してほしいという無理な要求を受けたりもした。それなりに哀訴もしてみたが、劇団四季で代表の指示は“法”と変わらなかった。情熱と意欲がとうてい出てこない状況を数えきれないほど経験した。多くの人はこのような時、「非難されない程度に適当に」を選択する。しかしキム・ジヒョンはそのたびに責任感に創意性まで加える。「どうすればこれをもっとおもしろくできるだろうか」を楽しく研究する。他の人たちが要求しないレベルの努力まで追加するのだ。年間200回以上の公演で10年間、6回も声帯結節が発生し、ストレスのため円形脱毛症や胃潰瘍に苦しむ時期もあった。しかしその臨界点を越えた瞬間、他人とは違う部分が生まれる。これはそのまま彼女の貴重な資産となった。「適当に」はその瞬間は楽だが、実際に組織を出れば何も残らない。