【コラム】アジアパラドックスと「北京・ソウル・東京・ハノイ」大学(2)
ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2013.12.09 16:18
4大学の総長は一様に、アジアの未来のための共同体精神の育成が緊急な課題であることを強調し、東アジア諸国の相互間の理解不足について遺憾と反省を吐露した。地理的な近接性が自動的に相互理解を伴うことができないということ、むしろ誤解と不信を育てかねないということを肝に銘じなければならないということだ。事実、グローバル化の流れの中で遠く離れた欧州や中東諸国に対する理解は促進された一方、まさに隣国への理解は皮相的水準にとどまっている。物理学者である北京大の王恩哥総長は、こうした相互理解の不足についての大学の文化的・社会的責任を痛感すると話した。ソウル大の呉然天(オ・ヨンチョン)総長は東アジア社会の隣国に対する理解度が世界レベルでどのように評価されるのか自省する時が来たことを強調した。
「アジアのアジア化」という表現を使った東京大の濱田純一総長は、アジア研究の新しい方向性を提示した。私たちの地域内のアジア研究の振興のためには、国際公用語である英語に劣らずアジア圏の言語教育が切実であり、一例として日本研究が日本学者の研究に加えて外国人、特にアジアの学者の深い研究とうまく総合される時により高い客観性を確保できるようになるというものだ。一方、ハノイ大のプンシャンニャ総長は東アジア社会の共通点と差異点を共に理解する近道である文化交流の重要性を強調した。留学生の持続的な増加、大学間の単位交換、国境を越えたオンライン講義、アジア大学評価基準の合意など、研究と人材養成という大学本来の任務を相談する総長の姿から、息苦しく絡まっている東アジアの政治的葛藤を乗り越えられる一筋の可能性と動力を垣間見ることができた。
遅まきながらも、東アジア共同体へ向けた具体的な歩みを始める時がきた。これは私たちアジア人の自尊心の試練でもある。偏狭な復古心理やナショナリズムに、これ以上しばられることはできない。マスコミの時代に大衆参加が伴う感情的な教祖性に捕虜になってもいけない。アジア人の情緒と規範にふさわしい「互恵平等」の原則を確立して、アジアを21世紀の世界の中心地域にしなければならないだろう。ここ数日、私たちのすぐそばで体験している葛藤や不安は、まさにそうしたアジアの本来の姿を見出すための痛みだと信じてみよう。