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「韓半島の分断、400年前の壬辰倭乱が源流」(2)

2008.04.11 13:34
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宋教授=壬辰倭乱当時の朝鮮は、日本が分割しようとすればそうなるしかなく、中国が合意を要求すれば合意するしかない、力のない貧しい国だった。 将軍は俸禄がなく、兵士は兵器がなかった。 軍隊ともいえない状態だった。 壬辰倭乱といえば栗谷(ユルゴク)李珥(イイ)の‘10万養兵論’を思い出す人がいるが、これは虚構だ。 栗谷の死から数十年が経過した後、栗谷の弟子による碑文に出てくるだけだ。 当時、朝鮮の人口は約400万人だった。 このうち兵農が分離された軍隊に行ける20歳代の男性は30万人程度だ。 両班・奴婢・障害者などを除き、また農作業をする人を考えれば、兵士10万人を養成する方法はない。 当時、米穀生産量は多い時で500万石程度で、政府税収が60万石だった。 10万人の軍隊を養成するとしても、軍用米も問題だ。 柳成龍の計算によると70万石が必要になる。 兵曹判書まで務めた栗谷がこうした事実を知らなかったはずはない。 一方、壬辰倭乱当時、日本は世界有数の軍隊を持つ国だった。 新武器の火縄銃の生産量が当時ヨーロッパ全体の生産量とほぼ同じだった。

ハン教授=それでも二強国の間に挟まれた朝鮮は、壬辰倭乱で滅びたり分割されたりせずに生き残った。 むしろ朝鮮は壬辰倭乱後も王朝が維持された半面、明は清に滅ばされ、日本では徳川幕府が創設されるなど、王朝が交代した点にも注目しなければならない。 とにかく多くの副作用があったが、明の軍を呼び入れたのは、世宗(セジョン)以降受け継がれてきた朝鮮の外交的力量が決定的な瞬間に成功したという点を傍証している。 中国との外交はそれなりに成功したということだ。 日本に対する文化的な優越意識は抵抗の基盤になり、戦争が終わった後にもずっと維持された。 また戦争期間中、義兵がずっと出てきたのは、朝鮮の支配層が地方社会を統制する能力を喪失しなかったという点も表している。 下層民からして民心を完全に失うことはなかったのだ。

 
宋教授=私は壬辰倭乱当時の朝鮮社会を‘依明派’と‘自彊派’に分けて考えている。 歴史学者は東人・西人・南人・北人・老論・少論に分ける。それは政治権力上では一定の意味があるだろうが、国家権力の側面では意味がない。 国権を維持するうえでは意味がないということだ。 自彊派には柳成龍・李舜臣(イ・スンシン)と義兵が属する。 依明派には宣祖とほとんどの臣僚が該当する。 朝鮮分割を阻止した最大の功労者は自彊派のリーダー、柳成龍だった。

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