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【コラム】韓服を着ることは“遊び”…「好きなように」着てこそ韓服が生きる=韓国

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2018.10.18 14:56
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フランスの社会学者、ジャン・ボードリヤールはディズニーランドがある本当の理由は米国社会全体がディズニーランドであるという事実を隠すためだという。米国の人々はディズニーランドを見物しながら自分たちの現実こそがディズニーランドのようなところであることを忘れるというものだ。

独立記念館には、日本の刑事が独立闘士を拷問する様子を模したジオラマ(模型設置)がある。日帝の悪行に憤怒している間、大韓民国でも長く拷問が行われたという事実は覆われて見えなくなる。独立記念館のジオラマは、まるで前述のディズニーランドのように、この地の現実から目隠しさせる働きをしているのではないか。このようなことをボードリヤールはシミュラークル(simulacre)と呼ぶ。本物よりも本物のような、実在よりも実在のようなイメージ。

 
人々は何を見て、何を見ないのだろうか。月を指す時は月を見るべきで、指を見てはいけないという。だが、驚くべきことに、真実は月でも指でもなく、その人の背後に隠れている場合が少なくない。そのため、誰かがあちらを指していたら、むしろその人の顔を覗き見ることがだまされない術かもしれない。

先日、鍾路(チョンノ)区庁は伝統韓服ではない、国籍不明(?)の韓服を着た人は故宮に無料入場させないようにすることを文化財庁に要請したという。ところが文化財庁ではいくつか現実的な困難点を挙げて難色を示したという。とにかく、この一件を通じて再び「韓服とは何か」という論争に火がついた。あるネットユーザーは胸をあらわにした朝鮮時代の女性の写真をSNSに投稿して「これこそが伝統の韓服だ」として、このような処置をあざ笑ったりした。果たして韓服とは何なのか。

いや、それ以前に韓服を着た人に限り無料入場させるという故宮は何かを先に尋ねよう。故宮は朝鮮時代に王が住んでいた場所だ。当たり前だが今は王は住んでいない。大韓民国は王国でなく共和国だからだ。そうした点で、故宮は英国のバッキンガム宮殿でもなく日本の皇居でもない。したがって、故宮は文化遺産であり、青瓦台(チョンワデ、大統領府)や政府庁舎のような現在の政治的空間ではない。これを混同するべきではない。

もう少し正直にいうと、故宮は大韓民国最高の観光名所だ。そうした点で、ひとまず歴史的意味は横に置き、故宮は朝鮮王朝という時代を背景に守門将交代式などリアリティ時代劇が毎日繰り広げられる演劇的空間といえる。したがって、この空間に最もよく合うドレスコードが韓服である以上、このような演劇への自発的参加者である韓服着用者に無料入場させる特典を提供することをめぐって論争を戦わせるようなことではまったくない。とにかく故宮で韓服を着ることは朝鮮時代のコスプレであり、文化遺産の雰囲気をリアルに盛り上げるものとして、それそのものは問題になるようなことではないように思われる。

ところがここで直視しなければいけないことがある。再び韓服とは何かという問いと、故宮とは何かという問いを一つにして、故宮で韓服着ることはどういうことかという問いを投げてみよう。この部分でまず確認しなければならないことは、韓服は今や生活服や儀礼服ではなく、遊びの服という事実だ今、韓国社会で韓服を最も多く着ているのは、既成世代ではなく時代劇などを通して文化コンテンツとしての韓服を体験した若者世代だ。彼らにとって韓服を着ることはただの遊びだ。このような現実において、韓服の生活化とグローバル化の主張は妄想だ。それこそ時代錯誤でなければ分不相応な帝国主義的欲望の表出にすぎない。

もちろん、近ごろでは新しいデザインの韓服が数多く登場し、日常で韓服を着る場合も増えたが、これが韓服の生活化を証明しているわけではない。それは若者たちのサブカルチャーとして自発的な快楽と差別化された好みの産物と見るべきだ。答えは韓服の遊び化だ。すでに若者たちはそのようにして韓服を着ている。そして韓服の遊び化は韓服の生活化やグローバル化よりもはるかに未来がある。遊びを決して軽く見てはいけない。私は韓服の未来が生活化やグローバル化のような国粋主義的発想ではなく、遊び化と文化コンテンツ化にかかっているのではないかと考えている。そのため韓服は「きちんと」ではなく「好きなように」着た方がいい。

ところで無料入場論争で見えなくなってしまった「故宮で韓服を着ること」の真の秘密は別のところにあるのかもしれない。再びボードリヤール式に言えば、故宮がそこにある理由は、いやそこを本当に王宮だと信じてそれに合うように韓服を着るべきだと強調する理由は、実は故宮の外側も朝鮮時代とそれほど違わないという事実を覆い隠すためのものではないか。ディズニーランドにいる白雪姫の城が本物の城ように見せるべきであるように、故宮は本物の王宮のように見せるべきで、そのための最も良い小道具が伝統韓服だと信じているのではないだろうか。

ボードリヤールはこうも言った。偶像は神の存在を証明するためのものではなく、神がいないという事実を隠すためにそこにそのようにあるのだと。そのため偶像の後ろには何もない。あるとするなら偶像の存在を信じたいと思う欲望だけだ。だからそれは実際のところ欠乏の記号にほかならない。もしかしたら私たちにないのは王ではなく共和国であるという事実を隠す欠乏の記号として、故宮はそのように存在しているということなのかもしれない。

すべからく演劇はリアルに演じなければならないものだが、だからといって演劇と現実を混同してもらっては困る。王宮の存在を真剣に信じすぎれば、共和国に対する反逆になる。今年は大韓民国政府樹立70年になる年だ。光化門(クァンファムン)を見つめる私たちの背後にあるのは共和国なのか、王国なのか。故宮で韓服を着ることの本当に意味は、この問いと決して無関係ではないだろう。

チェ・ボム/デザイン評論家

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