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【噴水台】朴正煕の顔

2004.08.25 20:27
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朴正煕(パク・ジョンヒ)の顔はヤヌスの顔だ。 明暗がはっきりとしている。 成就と繁栄の峰があるかと思えば、羞恥と変節の深淵がある。 光と影が分かれる。 朴正煕に対する交錯した評価は、彼の顔に刻まれた屈曲のためだ。 片方の顔だけを見ると驚嘆し、もう一方の顔を見ると怒りを感じる。

「開かれたウリ党」(ウリ党)の李富栄(イ・ブヨン)党議長は、先日、朴正煕の影の一部を暴いた。 新しい事実ではないが、目新しい。 クーデターで権力の頂点に立つ前、青年時期の話などだ。

 
朴正煕は二十歳だった1940年、日帝の傀儡だった満州国の満州軍官学校に入った。 この学校を首席で卒業した。 満州国皇帝から金の時計が授与され、卒業生の答辞をした。 この場面はソウルの劇場で、ニュース映画として上映された。 続いて日本陸軍士官学校に編入し、3番で学校を終えた。 満州関東軍に配置されたのは44年だった。 創氏改名した名前は高木正雄。

解放すると、金学奎(キム・ハッキュ)将軍が指揮する光復軍に身を任せた。 46年に帰国、国軍創設に参加し、陸軍士官学校の前身である朝鮮警備士官学校に通った。 左翼だった兄・朴相煕(パク・サンヒ)が警察の銃撃で死亡すると、彼は兄の友達の勧誘で南朝鮮労働党(南労党)に加入する。

48年の麗水順天反乱事件をきっかけに、軍内の左翼掃討作業が行われた際、朴正煕も逮捕された。 軍法会議で死刑宣告を受けた。 彼は当時、陸軍本部情報局長だった白善?(ベク・ソンヨップ)に救命を要請した。 白善?氏は回顧録で「粛軍過程で重刑が宣告された軍人のうち、救命された唯一のケースは朴正煕少佐」とした。 当時、軍指揮部が朴正煕を助けた名分は「軍内部の赤色侵入情報を余すところなく提供した功労」だった。 朴正煕が背信者だという主張の根拠である。

これが朴正煕の親日と左翼、変節の記録だ。 朴正煕の光はこうした影から出てきた。 だが注意しなければならないことがある。 影ゆえに彼が発散する光にまで顔を背けてはならない。 彼の光は貧困脱出と自主国防だ。 国の生存体制がその時代に備わった。 朴正煕以後の民主化価値と国民的自負心は、堅固な生存体制から育った花だ。 暗い部分は明らかにしても、それを包容してあげればと思う。 朴正煕の光は皆が誇らしく共有すればよい。 そう、光に目がくらんで彼の影まで美しいと主張する醜態にも注意してほしい。

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