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新正月と旧正月の対立と共存はいつから?

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2011.02.04 12:30
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1894年陰暦4月13日、高宗(コジョン)は冬至使として中国に行って帰ってきたイ・チョンノ、イ・ジュヨン、ファン・ジャンヨンを呼び、報告を聞いて労をねぎらった。500年近く毎年繰り返してきた冬至使の召見が終焉を告げた瞬間だった。冬至使の基本任務は中国の皇帝から冊暦をもらってくることだった。

時間は人が認知する天体のリズムだ。過去の中国人は、時間とは天が天体の運行を通じて自分の意向を明らかにするものであり、これがすべての生命体の運命を決めると信じた。天の息子の天子は空の意向を仰ぎ、天下に秩序を付与する者であった。天子の命で作られた冊暦は天の意向を盛り込んだ神聖な本であり、天子の冊暦により動く世界だけが文明世界扱いされた。朝鮮の中国年号使用と冬至使派遣は、天子中心の世界秩序に順応するという意向を明らかにする儀礼だった。

 
最後の冬至使が復命して1カ月後に日清戦争が起きた。その翌月には甲午改革が始まり、その年の末には国王が直接独立誓告文を朗読して中華体制から離脱する考えを明らかにした。次の手順は当然暦制改正だった。1895年陰暦11月17日を期して朝鮮は暦制を陽暦に変え、年号を「建陽」に定めた。年号は天子だけが制定できたが、朝鮮王の公式名称は「大君主」だった。「陽暦を採用した」という意味であるだけの年号も、君主の抱負を込めるには不足した。しかも陽暦は欧米の暦制であり、日本の暦制でもあった。国民はこれを日本の暦を受け入れたものと理解した。

1896年2月、ロシア公使館へと移御した高宗は、その前年の改革措置をすべて取り消したが、暦制はそのままにした。ただし王室と国家の儀礼は陰暦で執り行った。以後冊暦と新聞などは陽暦と陰暦を併記し、一般人は陰暦を主に使いながらも陽暦で日常を再組織する方法を習った。このうち暦制は大韓帝国の綱領に当たる「東道西器」、すなわち道と儀礼は韓国のものを、文物と技芸は西洋のものを採用するという原則にも合った。

日帝強占後に陰暦は公式に廃止されたが、韓国人は相変らず名節・祭祀などの儀礼と農作業には陰暦を使った。民間では陽暦1月1日を「倭正月」として冷遇し、こうした中で「二重過歳」が一般化した。陽暦と陰暦がそれぞれ支配する領域を分けたことがわれわれの近代歴制の特徴だったが、すでに世界的普遍が韓国的な特殊を圧倒することにより陰暦が支配する領域も減っている。“韓国型”とか“韓国的”という修飾語も似た運命になるかもしれない。

チョン・ウヨン・ソウル大病院病院歴史文化センター研究教授

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