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日帝植民地時代の悲劇を今に伝える大田刑務所、観光商品化へ

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2017.05.17 11:10
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大田市中区中村洞に位置する旧大田刑務所の望楼。大田市は望楼前に安昌浩・呂運亨先生など独立活動家の銅像を設置するほか、井戸周辺を整備して公園を造成する予定だ。
韓国の映画『暗殺』(2015年)や『密偵』(2016年)には義烈団が登場する。義烈団は日帝強占期だった1919年に満州で結成された抗日武装独立運動団体だ。義烈団員のうち、心山(シムサン)金昌淑(キム・チャンスク、1879~1962)先生など相当数が大田(テジョン)刑務所〔大田市中区中村洞(チュング・チュンチョンドン)〕で苦しみを強いられた。また、韓国戦争(朝鮮戦争)当時には数多くの収監者と良民が政治犯などとしてここに収容され亡くなっていった。

日帝強占期だった1919年5月に作られた大田刑務所は解放後1984年まで刑務所として使われた。現在残されている大田刑務所の痕跡は望楼(高さ7.85メートル)と井戸(直径2メートル、深さ12メートル)、アカメヤナギの木くらいしかない。

その大田刑務所が歴史教育空間と観光資源として生まれ変わる。権善宅(クォン・ソンテク)大田市長は「旧大田刑務所の史跡価値を生かして歴史公園を造成し、観光資源として活用していく」と15日、明らかにした。権市長は「大田刑務所の観光資源化は戦争・虐殺などの悲劇の歴史やその現場を見学して教訓を得る『ダークツーリズム』になるだろう」と述べた。

 
歴史公園造成事業はおよそ9億ウォン(約9000万円)が投じられて来年末まで行われる。

刑務所の望楼(大田市文化財資料47号)と愛国志士と反共者、良民が生き埋めにされた井戸周辺を整備して公園を造成し、取り壊された刑務所正門を再現するのが主な内容だ。

刑務所望楼前には、ここに収監された島山(トサン)安昌浩(アン・チャンホ、1878~1938)、夢陽(モンヤン)呂運亨(ヨ・ウニョン、1886~1947)先生らの銅像が設置される。過去に刑務所に収監された人物を中心に、刑務所生活や関連事件などを調べることができる資料も展示される。刑務所で起きた辛い歴史を絵で再現する「ストーリーウォール」も作られる。

大田刑務所を拠点にしたダークツーリズムは、大田市内にある国立大田顕忠院~中区木洞(モクドン)の聖なる御言葉の修道女会聖堂(1921年に作られた大田初の聖堂)~旧忠南(チュンナム)道庁〔中区仙花洞(ソンファドン)〕~官舎村〔中区大興洞(テフンドン)〕~朝鮮戦争当時、良民の虐殺現場となった東区山内(サンネ)コルリョン谷などをつないでいる。市はこの区間を巡るシティツアーを運営する考えだ。

金昌淑先生以外にも多くの愛国志士が大田刑務所で苦しみを味わった。朝鮮総督府は一般の監獄と遮断された二重壁を築いて愛国志士を収監した。興士団を立ち上げた安昌浩先生は1932年の尹奉吉(ユン・ボンギル)義挙当時に逮捕され、2年6カ月間、大田刑務所で服役した。解放後、建国準備委員会を運営しながら左右合作を試みた呂運亨先生もここで収監生活を強いられた。

1950年7月初めにはここに収監された政治犯1800人余りが左翼として集団虐殺された。同年9月には仁川(インチョン)上陸作戦で後退する北朝鮮軍が右翼の要人1557人を虐殺した。その後、大田を再び掌握した右翼勢が収監されていた左翼約1000人を報復殺害するなど、大田刑務所は血塗られた歴史を今に伝えている。1950年9月には大田刑務所の井戸から261体の死体が発見されたこともある。

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