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【コラム】「混ざった血」は正しくないという純血主義の影=韓国(1)

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2018.12.14 22:05
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巷で話題という映画『ボヘミアン・ラプソディ』でフレディ・マーキュリーは何度も「パキボーイ(インド野郎)」とからかわれる。映画の背景である英国、一時帝国だった国でパキボーイという軽蔑の言葉は過去に植民地だったインド出身者を見下す言葉だ。韓国人て「チョーセンジン」と言ったり日本人を「チョッパリ」と呼ぶのと変わらないひどい言葉だそうだ。パキボーイは1970年代に英国の一般人の有色人種に対する人種主義をそのまま表わしている。

近年稀な観客の郷愁を引き出すという映画らしく観客は大合唱したり、心の中で口ずさみながらフレディに感情に没頭する。主人公の感情の起伏にそのままついて行くと自分も知らないうちに彼に感情移入して時には侮蔑感に、時には自己嫌悪と絶望に浸る。パキボーイも同じだ。後からインドに移住してムンバイで学校に通ったものの本来タンザニア(ザンジバル)で生まれたペルシャ界の血統であるフレディの立場から映画を見た韓国の観客は人種主義的軽蔑を一言で圧縮したパキボーイという言葉に一緒に憤慨した。だが、あたかも面前でパキボーイという声を聞いたような不快感は私たち自身をフレディ・マーキュリーと同一視したところから来たものだ。主人公の感情に忠実だっただけだ。

 
先日仁川(インチョン)のある建物で暴力に追い詰められ投身自殺した14歳の子供は普段からロシア系だとからかわれていた。パキボーイと呼ばなかっただけ、死に追い込むまで暴力を振りかざした14、15歳の同年輩の子供たちはすでに「私たち」と「私たちじゃない」を区別する2分法を内面化していた。私たちと私たちでない人達を区分する基準はここでは血筋だった。子供たちのことだから簡単に裁くわけには行かないが人種主義の内面化は韓国社会に蔓延した純血主義と関係なくはない。表面的には否定するだろうが私たちは血統を問いただす。「純粋な血」は正しく、「混ざった血」は正しくないとみなすため血の純潔性にともなう評価をする。純粋な血がどこにいて、純粋でない血がどこにいて、血に、あるいは血筋に正しい正しくないということがあるのか。生物学的に、人種的に、いや物質的にも血には何の過ちもない。

血筋、血統だけが問題でもない。顔付きが違ったり肌の色が違ったりしても注目をあびる。東南アジア、南アジアから来た労働移住民や結婚移住民に対しても差別的な言葉があふれている。フランツ・ファノンは白人の言語、白人の文化、白人のイデオロギーで武装した黒い肌の人々を挙げて精神的、物質的脱植民を主張し、白い仮面は自らを白人と同一視しようとする有色人種の劣等意識だけであると主張した。ところが植民時代を逸して70余年も過ぎた韓国で依然として血統主義に立った暴力的人種主義を目撃する。さらに帝国だった赤道のない国であたかも黄色の肌に白い仮面をかぶったように帝国の言語である人種主義が内面化されていることはどう解釈すべきだろうか。


【コラム】「混ざった血」は正しくないという純血主義の影=韓国(2)

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