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<再開館控えた上海臨時政府庁舎>中国全域の韓中抗日記録を網羅

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2015.09.02 10:52
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大韓民国臨時政府上海庁舎の再開館式を3日後に控えた1日、上海市の公務員が予行演習をしている。上海臨時政府庁舎は韓中修交の翌年の1993年に復元され、5月から展示物を入れ替えるなど改・補修工事に入った。金九先生の執務室や史料展示館などがある。
上海臨時政府庁舎財団長の業務に詳しいある政府消息筋は1日、「中国全域での韓中抗日独立運動を網羅するのが臨時政府庁舎の再開館の核心」と述べた。

以前の臨時政府展示物が上海臨時政府(1919-32年)の記録物などに限定されていたとすれば、新しい庁舎は光復(解放)を迎える当時の重慶臨時政府(40-45年)まで8つの臨時政府全体を一つに合わせ、韓中が日帝に対抗して戦った内容を浮き彫りにしたという説明だ。特に中国政府が臨時政府を支援した事実を示す資料が大幅に補強された。「中国の支援」というコーナーも設置された。尹奉吉(ユン・ボンギル)義士が弁当爆弾を投げた虹口公園義挙(32年4月)以降、臨時政府が上海を離れて各地を転々とする時に中国がした経済的支援などを強調した。

 
国史編纂委員会が出した『大韓民国臨時政府資料集』によると、虹口公園義挙後に白凡・金九(キム・グ)先生が日帝の逮捕危機に直面すると、蒋介石国民党総裁は組織部長の陳果夫に『金九を保護しなさい』と指示した。陳果夫は上海に隠れていた金九先生を浙江省嘉興に避難させた。当時、金九先生が過ごした載青別荘の写真も新しい庁舎に展示された。

中国社会科学研究院所属の歴史学者、楊天石氏は昨年の論文で、「33年5月に蒋介石と会うことにした金九は100万元を要求し、『2年以内に日本・朝鮮・満州方面で暴動を起こし、日本の大陸侵略の退路を遮断する』と約束した」と発表した。これに対し蒋介石は「特殊要員を利用して日王を暗殺すれば、また別の日王が出てきて、大将を殺せばまた別の大将が出てくるだろう。(戦争のために)武官から訓練させよう」と述べたという。これを契機に河南洛陽士官訓練学校を基地に韓国人青年の軍事訓練を実施することになった。40年に韓国光復軍が創設された後には中国が「韓国青年救済費」などの名目で定期的に費用を支援した。

中国外交消息筋は「韓中連合の抗日運動が本格化したのは40年代前後と見ることができる。したがって抗日戦争が韓中共同の勝利という点を浮き彫りにするため上海臨時政府後の記録物をさらに前進配置したとみられる」と分析した。42年に朝鮮義勇軍が韓中抗日闘争の重要性を強調して出した声明書を展示したのも同じ脈絡だ。

再開館した庁舎に追加される展示物には、臨時政府が運営した小学校にあたる「人性学校」の卒業証書、臨時政府の国会にあたる議政院の孫貞道(ソン・ジョンド)議長の声明書などが含まれた。1919年7月に発表された孫議長の声明書は、韓国の独立を初めて承認したスイス・ルツェルン国際会議出席結果など臨時政府の外交的成果を含んでいる。

再開館のための展示演出とデザインは中国が、展示内容物と説明文案は韓国独立記念館が引き受けた。再開館を控え、周辺の建物も塗布作業をした。上海臨時政府は馬当路306弄にある建物4号に入居している。この建物は1-12号まである長屋形態だ。政府関係者は「中国が庁舎の建物をはじめ全体があまりにも古いため、同時に手を加えたと聞いた」と伝えた。

朴槿恵(パク・クネ)大統領が4日の再開館式に出席する際、案内も臨時政府主要人物の直系子孫が引き受ける。中国政府は金九先生の孫の金揚(キム・ヤン)元報勲処長らに招待状を送ったほか、年初から韓国に居住する独立活動家の子孫にも再開館式の招待状を発送した。

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