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【コラム】日本人に対する礼儀

2005.07.01 19:00
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ウンベルト・エーコの推理小説『バラの名前』が翻訳、出刊された年が86年だから、すでに約20年前のことだ。日本の西洋古典学者、谷口勇教授が、ある雑誌の寄稿で「...すでに韓国語版があり、はなはだしくはロシア語版まで出ているが...」と書いたことがある。

言葉のニュアンスから考えて、私は当時までも、日本語版を出版できずにいる日本の出版界に、残念な心情を示したもの、と受けとめた。欧州の本が、日本より先に韓国で翻訳、出版されることが多くなかった時代だった。訳者の私は、痛快に思ったり、小気味がいいと思ったりした。初版が出版された直後、私に、谷口教授の手紙が届いた。出版社を経由して、私のもとに届けられた手紙だった。

 
封筒を開けてみて、非常に驚いた。しっかりとしたハングルを、一つひとつきれいに書き込んだ手紙だった。西洋古典学者は、少なくとも5の言語に習熟しなければならない、と私は聞いている。ところが、谷口教授が韓国語まで書いていることに驚いた。「日本エーコ学会(Japanese Eco Society)」の海外のメンバーとして招待する、との内容だった。

韓国人の私がなぜ日本学会に、それも海外のメンバーとして参加しなければならないのか。くだらない話だ。私は、返事の手紙を送らないことで、同氏の招待を黙殺した。別に申し訳ないとも思わなかった。何せ日本人だから。94年、米国で『バラの名前』と『フーコーの振り子』を改訳していたときだった。突然の用事でソウルへ行ってくる途中、東京の書店に立ち寄ったところ、この難解な2冊の小説を解説した欧州と米国のガイドブック(案内書)の日本語訳本が数冊出ていた。

数冊を買ってカバンに入れた。後日、訳者の名前を注意深く見てみた。大半が、谷口教授が訳した本だった。同氏が訳した本をガイドブックにできたおかげで、私はむずかしいことで悪名高い2つの小説の中のなぞを、かなりたくさん解くことができた。だから、私だけでなく読者も同氏に借りがあるわけだ。だから、私は『フーコーの振り子』の訳者の後期に、書いた。

後日、あれだけ大いに助けてもらうことになったにもかかわらず、谷口教授の招待を沈黙でもって拒んだ無礼さを謝罪し、遠くない将来に同氏に会い、私の公明正大でない身の振り方を謝りたい、と書いた。それから「何回か日本人に対し無礼な身の振り方をした前歴があるものの、相手が日本人ならば、韓国人はちょっとやそっとは無礼であっても構わない、との通念には承服しないことを約束する」と付け加えた。

毎年、寒食になると休暇を取って我が家を訪れる日本人の友達がいる。20年以上続いていることだ。ところが、この友達がある日、私に、私の友達のうち誰かさんと誰かさんには会いたくない、と告白した。いい気分がしなかった。私は、君の友達である前にすでに「誰かさん」の友達だ。君が何の権利で、友達を選別するのか。

日本人の友達が説明した。無礼だとのこと、無差別的に攻撃するとのことだった。自分としてもよく分からない問題(主に外交)について、いちいち人身攻撃に近い無礼さを見せる、とのことだった。同氏はそうは言わなかったが、私は同氏の意中を推測できた。同氏は、私にこのように尋ねているように思えた。韓国人は、日本人にはちょっと無礼にふるまってもいいのか。

先輩の中に、アメリカ人女性と結婚し、2人の息子までもうけている人がいる。先輩の前で無意識的に、何気なく「アメリカのやつ、アメリカのやつら」と話したら、先輩が話した。君、言葉遣いを注意しなさい。「アメリカのやつ」と結婚した私としては困惑してしまうよ。

兄の娘、すなわち私の姪は日本人と結婚した。姪の夫婦は、実家で大きな行事がある度、幼い娘と一緒に韓国に帰国している。わが家族は、兄の前で「日本のやつ」、「倭人」、「チョクバリ(日本人を蔑んだ呼び方)」という言葉を使わないため努力している。努力しているうち、少しよくなった。哲学者ゼノンの言葉通りだ、と思う。

ペリクレス(古代アテネの政治家)の振るまいが、あまりにもきちんとしていることについて、人気取りのための偽善だとする人がいた。哲学者ゼノンがその人に話した。「君も真似してみなさい。知らないうちに上品になるだろうから」。

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