韓国の孤児3000人を育てた日本人女性(2)
ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2012.10.29 10:27
その後共生園は尹鶴子1人で引き受けなければならなかった。戦争孤児が多い時期、一度に500人余りを育てる時もあった。尹鶴子は56回目の誕生日である68年10月31日に肺がんで息をひきとった。木浦市は初めての市民葬で尹鶴子の愛と犠牲精神を賛えた。木浦駅広場には3万人の追悼客が集まった。彼女の手を経て成長した孤児の数は3000人に達する。
共生園と尹鶴子の話は95年に韓日合作映画『愛の黙示録』として作られた。98年に当時の小渕恵三首相は尹鶴子の人生を取り上げたNHKの番組を見て共生園に電話をかけ励ました。また、一生韓服を着て、韓国人として暮らした故人が息をひきとる直前、「日本の梅干しが食べたい」と話したという話を聞いて2000年には梅の木20株を送りもした。