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【コラム】韓国経済の足を引っ張る石器時代の道徳律(2)

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2015.03.25 16:00
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文代表の言葉と関係なく注目するのは、彼が強調する感性的道徳律の限界だ。そのような道徳律では今日のように数百万-数千万人が生きる匿名の巨大な開かれた社会の運営はできない。正誤、政治、法、市場を開化できなかった感性で接近すれば致命的な誤謬を生むことがあるという点を直視しなければいけない。感性的道徳律の政治化は道徳の横暴と変わらない。そのような横暴が親労働政策、分配正義、経済民主化、社会的経済など市場経済を危うくする立法だ。すべての国民の幸福増進に積極的に介入する福祉国家がその横暴のピークだ。

原初的本能を法制化して作った福祉国家を文明の象徴という迷信こそがまさに感性的な言葉遊びだ。子どもを産みさえすれば国が育てるという、無償で保育・給食を供給するという約束は、我々の本能に触れるのに十分だ。

 
しかし感性的道徳律の政治化がもたらすものは温情主義で偽装した「巨大国家」であり、こうした国家の下では経済的な自由と責任精神の消滅が必然的だ。その結果は成長の停滞と分配の歪曲だ。今日の韓国経済が二極化と低成長の沼でさまよっているのも、自由と責任を傷つける感性の政治に起因することを直視しなければいけない。感性の道徳律は強制することはできず、個人の自由な選択に任せなければいけないというアダム・スミスの主張は決して偶然でない。後天的な学習を意味する「文化的進化」の贈り物として市場道徳(経済的自由、責任精神)が生じ、持って生まれた感性の道徳律を抑制することができたが、その結果、野蛮な原始的生活の克服と文明化した生活が可能になったというハイエクの卓越した認識にも耳を傾ける必要がある。

本能的感性の野蛮的横暴は、自由市場の発展の致命的な障害物であり失業と低成長危機の張本人だ。韓国経済が不況に直面している今こそ、開化しなかった石器時代の本能から解放され、市場道徳を回復しなければいけない絶好の機会だと考える。

ミン・ギョングク江原大教授・経済学


【コラム】韓国経済の足を引っ張る石器時代の道徳律(1)

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