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【噴水台】英雄を持つことのできる資格=韓国

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2014.05.09 10:15
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あまりにも淡々と彼女を送り出した。国家的悲しみで心の余裕がなかったものの、もっと暖かくを送り出せば良かったのにと思う。

3日間の引退舞台の座席が販売30分で売り切れ、TV中継されはした。それでも18年の選手生活を締めくくったキム・ヨナの将来に対し、より多くの祝福が添えられて当然だった。

 
檀君以来、これほどこの(取り立てて大したことのない)国の国家ブランド価値を引き上げた英雄が他にいただろうか。

外国からの方が惜しむ声が大きく聞こえる。米国シカゴトリビューンのフィリップ・ハーシー記者はこのように書いた。「私が取材した10回の冬季オリンピックの中で2010年のキム・ヨナの演技が最も偉大だった。キム・ヨナがとても恋しくなるだろう。」

カナダのあるタレントも「フィギュア界のビヨンセが引退した」と言い、残念がった。キム・ヨナのオリンピック2連敗を奪ったロシアの国営メディアでさえ「フィギュアスケートの真の伝説になった」と持ち上げた。キム・ヨナの振りつけを担当したデヴィッド・ウィルソンは「君とともに過ごした時間は私の人生最高の瞬間」と話し、キム・ヨナを泣かせた。

肝心の韓国ではすでに過去の名前となっているのではないかと思う。メダルだけで記憶するからだ。今後、金メダルを取ってくることがないから関心がなくなった。

一般的に昔のものは捨てて新しいものばかり求めるのは、そのような理由だ。「厭家鶏愛野雉」という話の通りだ。家で育てる鶏は世話をせず、野原に暮らす野生のキジばかり追うのと同じという話だ。

英雄を大切に思わない社会は英雄を持つ資格がない。事実キム・ヨナは私たちにとって身に余る宝だった。そんな英雄さえ簡単に捨てておきながら、どうして新しい英雄が空から落ちるのを期待できようか。私たちが天安(チョナン)艦事件の時の英雄、ハン・ジュホ准尉を大切に記憶したならば、今回また他の英雄的な犠牲者は出てこなかっただろう。

ハリウッド式英雄のアイアンマンを演じたロバート・ダウニー・ジュニアが、このように話したことがある。「私たちはみんな、英雄的な行動をすることができる。だが、英雄というのは名詞でなく動詞だ。」英雄は名前でなく、行動で見せてくれるということだ。英雄を眺める目線で言い替えれば、このようになるだろう。「英雄というのは名前だけで記憶するのではなく、彼がしたことを再確認しなければならない。」

そのような心がけが集まった時のみ、ハン・ジュホのような英雄が再び生じることなく、キム・ヨナのような英雄を再び得ることができる社会的土壌が造成されることができるのだ。

イ・フンボム国際部長


【特集】アディオス、“フィギュアクイーン”キム・ヨナ

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