주요 기사 바로가기

【コラム】フェンシングに対する不穏な断想(1)

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2012.08.07 18:35
0
オリンピック(五輪)が人類の平和と和合の祭典であることは誰もが知っているが、悲壮な覚悟で競技場に入る若い韓国選手の姿を見る瞬間、その穏やかな常識は心臓の拍動に埋もれてしまう。 帝国列強の間で顔色を見ながら生きてきた歳月が消えない染みになってしまったのか、負ければ腹立たしく勝てば爽快な優勝劣敗の原初的感情を払拭することができない。 1992年バルセロナ五輪の最終日、韓国の黄永祚(ファン・ヨンジョ)が日本の森下広一を振り切ってゴールした瞬間、筆者は獣のように叫んで喜んだ。 未明の日本筑波大学の教授宿舎だったが、明かりがついたいくつかの部屋は人気も感じられないほど静かだった。

数日前もそうだった。 熱帯夜で眠れず、愛国でもしようと思ってビールを手にテレビの前に座った。 ところが何ということか。 韓国フェンシングのシン・アラムの「止まった1秒」は、長いあいだ武装解除状態にあった弱小国の傷に触れ、自制できない怒りがこみ上げてきた。 どうしてこんな非常識な、破廉恥で傲慢で勝手な、文明の仮面をかぶった野蛮なことを! 教養によって抑えられていた言葉が次々と集まり始めたのだ。

 
スイッチは押されたが、それは進まない時計だった。 いや、逆に進む時計だった。 スターウォーズに出てきそうな場面、4回の攻撃を無時間で算定したその計測は、英国が世界に宣布したグリニッジ標準時間だった。 逆に進む、いや進まないこの時間概念を、国際審判と国際フェンシング連盟がしん気楼のように信奉したのだから、文明標準の後えいがそういうのだから、どうしようもないとは…。 怒りが爆発すると、不穏な発想は手の施しようもなく集まってきた。

いくら人類和合を云々する五輪でも、欧州が他の人種には決して譲らないという種目があるようだ。 乗馬とフェンシング。 この種目には、欧州が現代文明の宗主国として歩むことになった歴史的原動力と貴族文化に対するプライドが凝縮されている。 西部映画の主演ジョン・ウェインが野生馬に乗ってテキサスの野原を走るのはただの疾走であり、乗馬ではない。 近衛騎馬兵を先頭に征伐に乗り出した戦場の精神を宮廷と庭で再現し、優雅に楽しむのが乗馬に隠された貴族の嗜好だ。 フェンシングも貴族文化の花だった。 中世の欧州地図は宗教戦争と種族戦争で数十回も変わったが、勝敗は細身の剣と鎧で重武装した貴族出身の騎士にかかっていた。 兵士が倒れると双方の騎士が出て戦った。 種族の優越性と王権の系譜は騎士の最終兵器である剣で決まった。 平和時代の18世紀に入って剣法は貴族階級の必修教養となったが、英国では今日でも国家名誉を高めた貴族に騎士爵位を授与するほど滅私奉公精神と紳士の品格を高く評価している。

関連記事

最新記事

    もっと見る 0 / 0
    TOP