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【噴水台】日帝時代に建設された影島橋の平行理論

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2014.06.04 13:10
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今年の観光業界の話題の主人公といえば断然、釜山(プサン)の跳開橋(跳ね橋)である影島(ヨンド)橋だ。昨年11月27日に初めての跳開行事が行われて以降、週末になれば平均3000人が橋の前に押し寄せる。橋の片方が上がる正午になれば南浦洞(ナムポドン)はもちろん光復洞(クァンボクトン)まで道が混み合う。

影島橋は、いろいろな事情がある橋だ。まず国内最初の跳開橋だ。日帝は植民地朝鮮の発展の姿を見せるために当時の先端技術を動員して橋を建設した。1934年11月23日に開かれた完工式には7万人を超える人々が殺到した。

 
私たちには大衆歌謡『頑張れクムスン』でさらになじみ深い。「吹雪舞い散る冷たい風の興南(フンナム)埠頭に/…/影島橋の欄干に三日月だけが淋しく浮かび上がった」。1・4後退(朝鮮戦争中の1951年1月4日に共産陣営がソウルを再占領した事態)の時に、釜山に集まった避難民だけで10万人を超えた。避難途中で手が離れた離散家族が再び会おうと約束した場所が影島橋だった。北側でも影島橋は有名だったものだ。

影島橋では人もたくさん亡くなった。一日一日が限界だった時代、恨みの多い事情を胸に抱いて橋から飛び降りた人が多かった。50年代に影島橋から身を投げた248人をパク・ウルリョン警査が救助したという美談も伝わっている(ユ・スンフン『釜山は広い』)。「影島橋から落ちて死ぬ」という表現は、今でも釜山で慣用語のように使われている。

ところでこの頃、全く思いがけないニュースに影島橋が登場する。救援派が掲げた垂れ幕「私たちは他人同士か」のためだ。この言葉が生まれた1992年「チョウォンふぐ料理店事件」(注:第14代大統領選挙に影響を及ぼすため政府機関トップらが密談していたのが盗聴されて明らかになった事件)の録音収録には「(大統領選挙を台無しにしたら)影島橋から落ちて死のう」という表現が出てくる。この事件にはキム・ギチュン青瓦台(チョンワデ、大統領府)秘書室長のほか2人がさらに出演する。盗聴犯人に逃亡資金を与えた鄭夢準(チョン・モンジュン)ソウル市長候補と、彼に懲役1年を求刑した鄭ホン原(チョン・ホンウォン)首相(当時のソウル地検捜査第1部長)だ。あいにく彼らはセウォル号事件とも具合悪く絡んでいる。

良い縁も良くない記憶も全て抱えた影島橋は、毎日正午に15分間、追憶を持ち上げる。事実、跳開橋は盛りが過ぎた橋だ。この頃は高強度のピアノ線を利用した最新の吊り橋が主流だ。韓国の鋼鉄線技術と吊り橋技法は世界最高だ。それでも目を引いて人の足を集めるのは影島橋だ。古い跳開橋であるロンドンのタワーブリッジが依然として世界的な名所扱いを受けているように…。その息づく秘密は“恨”かもしれない。影島橋は11年前に取り壊される運命だった。安全検査で「直ちに撤去」の判定を受けた。それでも「影島と縁を切れば、影島のおばあさんが害を加える」という釜山の伝説が影島橋を再び生かした。そうやって生きながらえる命を救ったというのは、私たちの歴史にも似ている。

ソン・ミンホ文化スポーツ部門記者

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