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第2次大戦敗戦後の日本女性たち、ソ連軍の性接待に出されていた

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2018.08.16 14:36
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第2次大戦敗戦後、満州に残っていた日本「満蒙開拓団」の若い女性たちがソ連軍の性接待に差し出されていたという証言が紹介された。満蒙開拓団は日本政府が1936年から国策で満州開拓政策を推進する中で満州地域に移住した日本人たちだ。

朝日新聞は15日、「開拓団の『性接待』告白 『なかったことにできない』」という題名の記事を通じてこのような証言を報じた。同紙によると、岐阜県の旧黒川村(現・白川町)から満州に移住した開拓団の女性たちに、敗戦直後、開拓団幹部がソ連軍の性接待を指示したという。

 
今月10日、岐阜市民会館で開かれた証言集会に参加した佐藤さん(93・終戦当時20歳)は「当時、幹部から『(夫が)兵隊に行かれた奥さんたちには、頼めん。あんたら娘が犠牲になってくれ』と言われた」と打ち明けた。

旧黒川村の満蒙開拓団は、41年以降、600人余りが中国の吉林省地域に移住した。このようにして中国に向かった日本人が全体で27万人に達したが、敗戦当時、日本の関東軍の主力が先に撤収したことから彼らの引き揚げが問題になった。実際、日本政府の帰国支援が遅れて現地住民や旧ソ連軍によって暴行や略奪に遭う事例が頻発した。旧黒川村の開拓団も、敗戦後、日本軍に置き去りにされて現地住民の暴行や略奪に苦しめられ、近隣の開拓団住民は集団自決した。

当時、開拓団の幹部が近くの旧ソ連軍部隊に村の治安維持を依頼したという。その中から17~21歳の女性15人ほどを旧ソ連軍の性接待に出した。これは45年9月~11月まで続いた。一部は中国兵も相手にしなければならなかったという。

当時17歳だったある被害女性(90)は初めは飲酒の接待と思っていたが、ふとんが多く敷かれた仕切りもない部屋で、他の女性たちと共に暴行されたと明らかにした。この女性は逃げようとしたが捕まってスコップの柄で殴られたという。女性が書き写した幹部のメモには「乙女ささげて数百の命守る」などの内容がある。この被害女性は自分を性接待に差し出した大人を許すことができず、日本に帰国した後、故郷の黒川村には2回だけしか帰らなかった。

当時、21歳だった安江さん(2016年91歳で死去)は2013年の講演で「性接待を切り出された女性たちは泣き、年配者から『どうせ日本はだめだから一緒に死のう』という意見も出た。だが、副団長が『団を守るのか、自滅するか。お前たちには、力があるんだ』と説得したと証言した。

性接待に出される女性の中で最年長だった安江さんは、自分を殺して、「お嫁に行けなくなったら一緒に人形の店を出して暮らそう」と仲間に話してこれを受け入れたという。

開拓団には医務室が用意された。性病や妊娠を防ぐために薄めた消毒薬で女性の体内を洗浄した。消毒作業を手伝っていた鈴村さん(89)は当時16歳で、鈴村さんも性接待に出されそうになったが実姉の安江さんが間に入って交渉したおかげで免れることができた。

開拓団は46年9月に帰国した。最終的に約400人が帰ってきた。鈴村さんは「帰ってこれたのは安江さんのおかげ」と話した。鈴村さんは子どもができなかった安江さんに自身の次男を養子に出した。

証言によると、接待を強要された女性のうち4人が性病や発疹チフスなどにより現場で死亡した。帰国後は長期入院した人もいたほか、性接待のうわさが広がり独身を貫いた人もいるという。被害女性の大部分は黒川村を出たという。

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    2018.08.16 14:36
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    ハルビン入りする日本軍。関東軍は若槻内閣の戦争拡大不可方針をあざ笑うようにハルビンに入城した。(写真提供=写真家クォン・テギュン)
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