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【コラム】3月の慰安婦おばあさんと尹東柱、彼らの言葉(1)

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2018.02.27 10:09
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ヒューマンドキュメンタリーの作家として仕事をしていた時に出会った慰安婦おばあさんは、ほぼ例外なくこのように話していた。「私のこれまでの人生をすべて話したら、十二冊の本でも足りない」と。ストーリーが違うだけで、波瀾万丈だったそれぞれのおばあさんの事情は私の人生の少なくない資産になった。さらに、私が実際に会ったわけでもなくメディアを通じて見かけただけだが、まるで長い話を交わしたことがあると思うくらい記憶に残る、そのようなおばあさんもいる。ノ・スボクさん。その名前を思い出した瞬間、もうかなり手遅れだという予感がして一生懸命検索をしてみたが、やはり手遅れだった。ノさんはすでに7年前、タイのある療養院で亡くなっていたという。

1942年、21歳だったノさんは、釜山(プサン)近郊の井戸で洗濯をしていたところを連れ去られ、日本軍の「慰安婦」になった。3年後、解放された年に収容所を脱出したが、故郷には戻れない体になってしまったと考えた。飲食店で働きながらタイの男性と結婚したが、慰安婦生活の後遺症で子供を持つことができず、幸せな家庭を続けることはできなかった。そのように生きてきて還暦をはるかに過ぎた1984年、ノさんの存在はあるメディアを通じて初めて韓国にも伝えられた。

 
慰安婦生存者ノ・スボクおばあさん。たとえ短い間であったとしても、ノさんは約40年ぶりに故郷の地を踏むことができた。だが、彼女は韓国語がほとんど話せない状態だった。アリランの歌は覚えていたが、話せる言葉は両親兄弟の名前と故郷と「オモニ(お母さん)」程度だった。怖くて恥ずかしい記憶を思い出すまいとする無意識が過去の多くのことを忘れさせてしまったようだ。それでもおばあさんの爪にはホウセンカの花で染められていたが、その時、私には物悲しく感じられた。爪をホウセンカの花で染めていた思い出を忘れることができないように、おばあさんの心の奥底には今も多くの思い出と愛と母親の記憶が残っているはずだが、それを言葉で表現できず、どれほど残念だろうかと思った。おばあさんが話せる二、三言が、ことのほか大切に感じられた。

その時のノさんの言葉を考えると、最近の私たちの言葉はさまざまな面で非常に行き過ぎているように感じる。刺激的な設定と破壊的なセリフで怒りの感情をあおっているどん詰まりドラマがウェルメイドドラマよりも高い視聴率を取っているかと思えば、政界ではイシューづくりのための暴言政治を戦略として採用しているくらいだ。ネット上の嫌悪表現は、匿名性をいいことにさらに破壊的だ。破壊的であればあるほど強く映ると思っているようだ。だが、「とにかく言ってやれ」というような刺激的な言葉は、最初にそれを言った本人からむしばんでいく。


【コラム】3月の慰安婦おばあさんと尹東柱、彼らの言葉(2)

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