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<朝鮮通信使400年>通信使が食べた料理が今は観光名物に

2007.05.02 10:10
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(左)正使、副使、従事官ら通信使高位官吏3人の宿所として使われた福禅寺。お寺の中には1711年、従事官李邦彦(イ・バンオン)が「日東第一形勝」と書いた碑石が建てられている。(右)朝鮮通信使3使に提供された3汁15品で構成された接待膳。鞆の浦=キム・テソン記者



上関を出発した朝鮮通信使一行は瀬戸内海へ向かった。本州と九州、四国に囲まれたここは「日本の地中海」と呼ばれるほどすばらしい風光を誇る所だ。

 
1607年3月29日、通信使の船は安芸の国下蒲刈に到着した。今の広島県呉市である。一時、海賊の巣窟だったこの村が広く名を広めた時期がまさに朝鮮通信使が訪れた江戸時代だった。

◆ 船着き場にじゅうたんまで敷いて=壱岐地方は特別に通信使らを手厚く迎えた。最初の通信使として記録を担当した慶暹(キョンソム)は「船からまだ降りていないのに珍しい食べ物がいっぱい運ばれた」と書いている。3回目の通信使も「すべての物が清潔で、食べ物も非常に立派だった」と記録した。11回目の通信使の紀行文には「船着き場と接岸施設に赤いじゅうたんまで敷いてあった。いくら遠慮しても踏んで行くことを勧められた」と書いている。

ここの浅野藩は接待に真心を注いだ。通信使の宿所を構える金銀飾りの高級屏風を隣近地域から手に入れ、料理と釣りの案内人に200人を動員した。27年間、下蒲刈村の文化財委員を勤めた柴村敬次郎さんは「通信使らの泊まる客舎は毎度新しく作った。江戸訪問を終えてまた立ち寄ったとき、同じ所に泊まればつまらないのではないかと壁紙を新たに貼ったり宿所そのものを新しく建て直したりした」と話した。通信使の接待のために朝鮮語通訳官まで養成したという。浅野藩はこれでも足りなくて通信使らが訪問した地域に官吏を派遣し、彼らの好きな食べ物をあらかじめ把握し、接待に万全を期した。

下蒲刈には1994年「御馳走一番館」という朝鮮通信使資料館がオープンした。ここには10分の1の大きさに修復した通信使の船と接待した食べ物、通信使の服装などすべての資料が展示されている。毎年10月に開かれる村祭りになると隣近の食堂と旅館は通信使が好んだ料理やお弁当を作って観光客を集めている。2003年以後、毎年2000人規模の韓国の修学旅行団がここを訪れている。

◆ 最高の名勝地福禅寺=通信使の次の目的地は福山藩の鞆の浦だった。1748年10番目の通信使らはここで小さな「反乱」を起こした。「福禅寺を宿所にできなければ船から降りない」としたのだ。通信使は対馬を経て江戸に行く途中、いちばん景色が良い所に泊まって国賓級のもてなしを受けるのが慣例だった。しかし彼らが鞆の浦港に到着したとき、福禅寺は地域の役人たちの宿所として使われていた。

これに頭に来た通信使一行はその晩、船でひと晩を過ごし、翌日早く江戸に発った。彼らは江戸訪問を終えて朝鮮に帰る途中、福禅寺に泊まることができた。当時、正使だった洪啓禧(ホン・ゲヒ)はこの絶景に酔って「波が向かい合う樓閣」という意味で「対潮樓」と名づけた。

現在、国家文化財に指定されている福禅寺は1616年から通信使幹部の宿所として利用された。伊東住持(85)は「ここは瀬戸内海に浮かぶ島々を鑑賞することができる上、遠くは四国まで眺めることができ、最高の名勝地に挙げられる」と話す。1711年、この寺に泊まった通信使幹部たちは「江戸より秀逸な景観」と感嘆し「日本最高の景色(日東第一形勝)」という文を残した。

この村を歩いていると、まるで江戸時代に戻ったような気がする。狭い路地を通って海に出れば通信使らが船をつけていたという港や石段が昔の姿をそのまま残している。郷土史学者である池田一彦さんは「鞆の浦住民たちの間には第2次世界大戦と明治時代にも昔を守ったという自負心が強い。

植民地時代朝鮮に対する民族的差別があったにもかかわらず1940年、福禅寺を「朝鮮通信使宿所」として広島県の史蹟に登録したほど」と話す。鞆の浦は今年の初め、日本の昔の都市保存財団が選定した「美しい日本の歴史的風景10選」に選ばれた。

こうした伝統を固守する村でも開発ブームにはまったく勝てなかった。この地域自治団体は10余年前から鞆の浦港を一部埋め立て、橋を掛ける事業を推進している。

通信使の最高官吏3人には「3汁15品」

「通信使らは牛、イノシシ、鹿、鶏、キジ、カモ、たまご、鯛、あわび、タラ、ニシン、海老など肉と魚を好む。スイカ、柿、ミカンのような水気が多い果物、そして麺、ぎょうざ、羊羹、キャンディーも好む。鶴、鯉、すっぽんは、以前は好まなかったが、今は求める人もいる。酒はおおかた好き嫌いを言わない」――。

1748年、朝鮮通信使に遂行した対馬藩主が各地域に送った「朝鮮人の好きな食べ物」だ。接待を担当した地域藩主らは通信使らの食性を考慮して料理を支度したが、これが正使・副使・従事官など通信使最高官吏3人に提供された3汁15品だ。三種の汁物と15種のおかずにご飯とお酒が添えられる。下蒲刈村はこの地域の料理専門家である永山久夫さんに依頼し、3汁15品を再現して2万1000円で出している。

現地到着1週間前、宿所であるトゥモローハウスに注文した3汁15品はぱっと見たところ韓国の祭祀膳と似ていた。キジ肉の焼き物とご飯の上にかけて混ぜて食べたというゆずみそ(みそにゆずの汁を入れて混ぜたもの)は馴染みがない。しかし各種、さしみを含めて鯛の焼きものとあわびの煮物、タラの煮物、タラ鍋、イカ巻き、カモの焼き物、豆腐のお好み焼きまで大部分がよく慣れ親しんだ食べ物だった。

トゥモローハウスの管原美保社長は「当時とまったく同じ材料と味付けをした」とし「その時と違う点があるとすれば、当時はお客さんに対する尊敬の表れとして一度使った食器は壊したが、今はまた使うこと」と説明した。

400年前の海の幸や山の幸の味はどうだったろうか。塩、醤油、砂糖、油など4種類の調味料のほかに何の調味料や香辛料もなかっただろうから、淡白にならざるを得なかった。食べ物がおおむね冷たいのも問題だった。「おかずはともかくどうして汁物までこんなにぬるいのか」という質問に菅原社長は「朝鮮人は熱いものを嫌がって、ぬるい料理を好んだ」という昔の記録を見せてくれた。

結局、社長に熱い日本のみそ汁を一杯頼んだ。用意してくれた主人の真心を思ってきれいにいただいたが、辛くてぴりっとするキムチチゲへの思いは断ち切れなかった。



◆ 協力=ソン・スンチョル江原大史学科教授、仲尾宏京都造形大学客員教授

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