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【コラム】我々を見る外国人の視線に敏感な理由=韓国(3)

ⓒ韓国経済新聞/中央日報日本語版2017.10.02 15:30
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◆無限競争の枠では共感能力の発揮は難しい

外国人がどの国籍かによって変わるこうした「他者感受性」は、国内の多くの懸案のうち我々が常に念頭に置かなければならない部分だ。それは同じ国の大衆といっても近くいる人とそうでない人の間で「他者感受性」が顕著に異なり、そのためにある共感が人によっては相対的な剥奪感や疎外につながる可能性がある。我々はメディアが注目する光化門(クァンファムン)広場で見られる懸案には深い関心を持つが、その外側にある照明が当たっていないことには関心を見せない場合が多い。

 
性善説を主張した孟子はかつて我々の内面に「惻隠の情」のような道徳的性向が内在していると言った。すなわち「共感する能力」は本性ということだ。このため誰であれ傷ついた人たちを見て憐憫を感じ、誰かの称賛に自負心を感じるのは当然のことだ。しかしこのように「他者感受性」が特に敏感で他者の苦痛を自分のことのように感じ、それを改めるために行動をする人たちがいる半面、そうではなく自分のことに没頭する人たちがいる。それは社会システムと関係がある。本性的に共感の能力を誰もが持つといっても、新自由主義体制のような無限競争の枠の中ではそれが発揮されにくい。我々がよくオーディション番組などで目撃するように、自分の生存が当面の課題として迫ってくる現実の中で他人に目を向けるのは容易でない。場合によっては他人を踏んでこそ自分が生き残る過酷な現実だ。

このため我々が最近になって直面した多くの懸案、例えば性別・世代・理念・地域のような葛藤は、我々に本性的に内在した嫌悪が発現したというより、「他者感受性」を発現するのが難しい社会システムによって症状として表れたものと見なければいけない。外国人の視線に我々がそのように敏感になるというのは悪いことでない。ただ、それが単純な「認定欲求」を越えてこそ疎外が消える。それを実現するためには「他者感受性」を発現できる社会システムを作り出す我々の努力がなければいけない。他者と想定した彼らの立場を考えて感じる、生き残りではなく共存の生活を考えなければいけない時だ。 (中央SUNDAY第551号)

チョン・ドクヒョン/大衆文化評論家


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